教育における主体性の正体 #4 主体性可視化のための権力

 だいぶこの話が長くなりそうなので、前段に結論への意図を書いておきます。自分が行き先を見失いそうですから。 
 現時点の学校教育で明確に評価の対象となっている主体性は現状の「やる気」という見方でよいのか?
 そして主体性を高めることが学習効果と成員平等に連動するためにはどうなる必要があるのか?という2つの視点から突き詰めてみようということです。というわけで、

教育における権力とは何なのか

 教育における権力の作用の具合は、実は非常に複雑です。多分この建て付けで主体性を見ることが今まで実現してこなかった理由はここです。
 かくれたカリキュラム論でも少し使ったけど、主体性を映し出すためであるのならもう少し精緻に作っていく必要があります。

 基本的にはただの強制力としては違いますし、権力的に振る舞っているように見える教員であっても権力の只中にいますし、その権力構造の中で新たな権力を作り出す存在でもあります。
 そのあたりを振り返るには、マクスウェバー、ミシェルフーコー、タルコットパーソンズ、ニクラスルーマン、宮台真司、盛山和夫ぐらいを参照しておけばいいのかな?ルークスや志田、廣松なんかでもいいのかもしれない。
 こないだ宮台真司が最終講義で権力の予期理論が絶版になっていないことを見田宗介の博士論文が絶版になっていることを引き合いに出してまで誇っていましたが、これは単純に題材が今でも未解決問題であることに関係していると思います。多分題材を宮台に提供したのは見田です。今その権力の予期理論を引っ張り出して読んでますがゲーム理論としても古さが拭えず大したことは定義づけられていません。権力主体の性質と権力生成の一部に言及したことは評価しますが、所詮その程度の本です。何より薄っぺらい。こんなに値段が高いのに、薄くてしかも中身が少ないのは致命的です。もしかしたら「論理哲学論考」を目指したのかもしれませんが、それにしてもです。彼もいろいろ言いますが結局権力がどういうものかを説明できていないし、何より問題なのは理論と言いながら実用的に耐えうる広がりが何一つないことなんです。東大出の教授でさえもなかなかメインに据えるにはリスクの大きい存在が権力だと思ってもらって差し支えない。
 彼なら権力について問われれば、間違いなくこういうと思います。「僕は権力なんか相手にしていない。権力なんか定義しても意味がない」
 とにかく権力は複雑な言葉遊びが可能な存在です。しかし少なくともさまざまな社会の現象を読み解くには必要な言葉であることは間違いないと考えます。相当射程の長い言葉ですが・・・
 権力には、いくつかの決まり事はありますが、今ここで明らかにしておきたいのはその精緻な定義よりも教育者が権力発動者としての意識があるかどうかなのです。それも権力に対する主体的で対話的で深い学びが継続されているかということです。それさえあれば、主体性や諸々の教育問題に触れ合う主体としての教師の前提が割ときちんと整うからです。
 もちろんいつかきちんと定義したいとは思っています。少なくとも私なりのの権力の定義とその発動様式というのはどこかに書きたいとは思っています。
 今の時点でさしあたってはっきり言っておけることは
権力は目に見えない抵抗しがたい力でどこにでも存在しうる
   どの方向からも発動する つまり誰発信かはわからない
   よって自分でつくって自分で縛られることも可能
   伝達や選択や選好の過程での矛盾はある
   可視化することは課題解決にはならない
   ほとんどの場合人々に無自覚に受容される
といったぐらいのことである。もっとごちゃごちゃしてきちんと定義できることもたくさんあるのだが、それこそ沼にハマるという表現にふさわしくなってしまうのでかなり端折ってしまいます。しかし基本的なことなのに、これらはあまり知られてはいないんです。
 しかも宮台は最終講義で会社組織における忖度を権力性として説明しているのですが、そうなると職員室における同僚性やクラスルームにおける子ども同士の関係すらも権力性にまみれたことになってしまいます。それ自体は間違ってない指摘だと思うのですが、彼は個人が腐っているのでしょうがないと言い切り、コモンの細分化で乗り切れたのにみたいなことを言います。ということは子どもと教職員はこの状況を永久に抜け出せないし、教員は権力性の奴隷みたいなことを続けていくことになってしまいます。
 彼のような過去の言説を利用して分析をするだけでは、結局実行する必要がある分野においては彼がバカにするようななんの役にも立たないものと大差がなくなってしまうということを実証してしまっています。昼行燈の方が暴力対象にならんだけまだマシみたいな最悪の宣伝をしてしまっていることに彼自身は気づいているのでしょうか?重ねて最悪なのは彼は最終講義でそれをADHDであることのせいにする発言をしてしまったんですね。
 彼が政治を語るときは、冗長性があり揺らぎへの余白にも少し余裕のあるシステムなのでそのロジックでも、ムチャな提案でも何とかなります。
 しかし、教育のように余白が極端に少ないために現場に極度のストレスをかけることで制度を常時まともに実行していく必要のあるシステムの場合、そんなことを言ってたら担い手がみんな逃げ出してしまうことになぜ気づかないのか不思議でしょうがない。それも個人が腐っているせいにして終わらせるつもりなんでしょうか?なんの解決にもなっていないんですけど・・・

 大半宮台真司への文句になってしまったけど、一時期は大スターだったし、本持ってる時点でいいお客さんなんですよね。

 とにかく主体性という目に見えない、定量的にも相対的にも表しがたい存在を可視化するには媒介を用意して言語化するというのは王道なんだということ。しかしそれに権力という、より厄介な言葉を選択するのはやはり沼かもしれません。
 しかしやはり教育に携わる人間なら常に権力性をレベルはさておき意識すべきという考えは変わらないし、場の設定でクラスルームに限定すれば権力が見やすくなるという見立ても変わらない。ということ。で続きます。

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