特別支援教育の未来図

 たぶん特別支援教育でもインクルーシブアンドダイバーシティでも名称はどちらでもよい。

 「公教育の場」における取り組みの一側面に過ぎない。
 同じものの一側面をいろんな角度から見てそれを細分化だと言う研究者がいるが、それはただの言語化であり、学問と呼ぶにはおこがましい。
 もちろん言語化は有効な手段であるが、学問として成立するためには少なくとも一般化されている必要がある。感想は学問ではない。だから査読というチェック機能があるのだが文系では必ずしも有効に機能しているとは言えない。査読者を評価する機能がないからである。客観的チェックができないのが実績主義の弱点だ。
 教育に関わる言語化はせいぜい実務家教員レベルの仕事である。ただの一側面をあげつらって一般的なコメントをすることにどれほどの意味があるのか?一般的と一般化の間には天と地ほどの差があるのに。

 特別支援教育において現場の教員は結局、なにをどうすればいいのか?
 こうした知識人による少しでも課題に応えられている言語化を見たことがない。ヴィジョンや現実的寄り添いのないマニュアルは見たことはあるが・・・そうした関連の文章はイメージの話に終始し、どうとでも受け取れる言葉を吐き散らかす。それでは意味がないでしょ。
 
 いま必要なのは、特別支援教育では何をやらないか?をはっきりさせ、そこに対してドラスティックな論理展開をすることである。
 やることばかりを詰めこんだって結果責任から目をそむければ何もやってないのと同じことになってしまう。
 日本の教育学研究が引きずってきた論争回避の風習はここにきて悪影響を及ぼしてしまっている。文科省は大学の直接の支配者でありながら研究対象の実行者であることがチェック機能としての知識人を無力化してしまった。とくに大綱化が、である。
 今特別支援教育に対して有効な発言や取り組みができるのは一体誰なのか?文科省?教育委員会?弁護士会?教職員組合?知識人が作る意見表明団体?教職員が作る教育サークル?保護者の会?NPO法人?退職教員の作る会社法人?リタリコみたいな株式会社?
 どれもしっくりこないです。多分誰が何を言おうとも結局は現場は法令や通達に従ってその中でなんとか最善の方法を選択しようとする教職員の努力によって最低限のバランスを保つ同僚性に頼ってきたという日本的教育の構図に収まるということになります。

 そしてその構図を豊かにしていくためには、実現可能かどうかはさておいて、いくつかのヴィジョンについて広く対話されることが重要であると考えます。成功事例や先進事例、研究推進校の発表、マニュアルといったことだけが重視されるわけではないフラットな状態で。

 教員のみんなでやるはみんなやらない。
 どの子どももクラスの一員として扱っていくには、集団づくりに特化した取り組みが必要になってくる。
 しかし子どもは意見表明の主体であり、他人に迷惑をかけない限りは自由な主体である。しかし同時に陶冶されるべき主体でもある。全人的な発達を目指されることについては保証されなければならない。

 こうしたことを小学校教育に特別支援教育に取り混ぜてビジョンを作っていくとやはり学習指導要領を含めた教育関係の法令の縛りは少し邪魔になってきます。そういう意味で今の法令改正の流れは悪くない。できれば現場の裁量権を云々ということよりは訂正可能性を持たせていける配慮がほしいところです。

 しかし、それでも現実的に法令の遵守を維持した形での特別支援教育を目指していくというなら、学年やクラスの枠組みは維持したままで(もちろん学習指導要領の学習の水準は保証したままで)のそうした枠組み同士の連携や一律性について取り除いていく必要だ。
 つまり何をやらないか?学校として取り組みの一律性を保護者に対して保証するということをやめるということである。
 「よそと違う」というクレームを受け付けない。
 例えばクラス替えをやり直した滋賀県。宿題をなくした小学校。校則を変えた学校。コロナの対策についての変更。学校担任をチーム制にした学校。授業時間を減らして余剰時間を作りだした東京都。
これらの取り組みに対する意見表明はあっていい。しかしよそと違うという発想を学校の周辺が捨て去っていくことについて理解を求めていく仕事が必要になってくる。このクレーム容認社会においては。

 その上で学級担任がクラスの子どもを集団として一人で見ていくことに対して多くのサポートが必要になってくるということである。
 もちろんよそと違うというクレームを受け付けないことはここに対する非常に大きな援軍になるはずである。
 クラスという名称を守る必要はないが一つの学習集団としてのその個々のビジョンに対する理解と共感を伴って集合体としての学校を形作ることに対する障害は排除すべきものとしての研究対象になるのではないか?
 個々の学習集団がいかなる個性を持った集団であってもどの子どもも取りこぼすことなくまとまりとして成立していくこと。そのための1つの視点の尊重。
 少しくらいの不都合、、例えば授業が遅れる・決められたことができなかった・発表作品が不出来だ・競うことにいつも負ける・好き嫌いがあってある教科に偏りがち・給食時間が長めといったことに対する学校全体からの許容と独立の精神はクラスの対してすごく大切です。
 そこには学級担任による1つの目の視点による学習集団としての子どもの統合
 チェックや対話があっても基本学校全体によって、開かれた教育課程によって、承認されていくことが必要。

 こうしたビジョンはいかがでしょう?
 学級王国の議論・働き方改革の議論・這い回る経験主義の議論には著しく逆行すると捉えられかねないと思いますが、現実的に今の学校現場で行われている当たり前の取り組みが全ての問題を解決していく元なんだと思います。
 この教師の当たり前を当たり前に受け入れてくれる学校づくり、社会づくり、人づくり。
 ぜひこの当たり前の取り組みに対して対話による理論武装させていただけるといいなと思います。
朝活終了です。では。


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