教育における主体性の正体 #2 どうしても主体性を評価したいなら・・・

主体性の新しい評価方法

 さて、個人の主体性をどうしても定量的に評価するというなら(それはどう足掻いても主観的な評価にしかなりえないと思うのだが)、時間からのアプローチの仕方が主体性を測る指標になると思う。
 
 ある同一作業時間にかかった時間を単純に比較する。それだけではこれまで通りなので、さらにその個人の基底である能力や感覚を測定してどれだけ無理してその作業に没頭したかを測る指標を用意することになる。
 少し荒っぽい言い方をすれば、その個人にとっての能力と時間感覚との差異を主体性の評価キジュンにするという考え方である。
 その感覚には自己評価の評価具合というものも入ってくる。というのも私は小学校段階でのルーブリックを含めた子どもの自己評価というものを全く信用していない。子どもは加減ができないから子どもなのである。大人が、教師が、子どもより上とかそういうことを言いたいわけではない。少なくともそういうものを無条件に持ち出す人間は信用できないという善悪の判断キジュンが私にはある。ルーブリックが無意味というよりはルーブリックを見てやはりこの評価が子ども個体ごとに無意味だとわかることには意味がある。そうしてクラスの半分以上の子どもの評価が無意味だと分かった時点でそれに費やした時間が徒労だということを誰もはっきり言えなくなってしまう不思議な代物であるよねということは現時点誰にも言えてない。
 そうした意味で子ども個々が自分をどう見れているかを判断するキジュンというものがどうやら必要そうだということはわかる。ただこの評価キジュンが言語化されているものを見たことはない。

 少しそれたが、つまり主体性を見る視点として時間に着目した場合、単純に時間をかけた部分だけでなく、時間の質にコミットしようとするわけである。
 量だけにしない理由は前述のとおり、時間量を主体性のモノサシにするやり方は教育現場では今でも行われているやり方である。
 しかし弱点として単純に時間と主体性が直結せず、成果が形として出来上がらぬままもがき苦しんでいる子どもがいた場合、その子どもが頑張った形にならない時間は評価されないことになってしまう。
 現在、義務教育学校で学力面の救済措置として存在する「やる気」のような部分というのは定量的には測られた結果として直結しているとは言えない。それは定量化する意味も時間もないです。
 しかし主体性を評価するときには、子どもの作業時間量とペーパーテストの主体的に学習に取り組む態度の部分の点数だけにとらわれすぎてしまうことは正しく個人として測定できているとはどうしても思えない。そしてその測定結果がその子ども個人の次の学習に生かされるとも思えない。

 人間はいつでも変われる存在である。いつなのかはわからないが、しかしそこに少しでも効率的な視点を教師の取り組みとして盛り込んでいくことは、一人の教師と子どもの出会いとして、教師のオリジナリティとしては十分効果的なのではないかと思う。
 同時にこの出会いが適度に入れ替わることに多様性の醍醐味があるのではないかとも思う。教師の多様性という面からも子どもの多様性同士の混ざり合いという面からも。
 
 教育的取り組みが放置やあきらめではなく、さりとて無理をさせ過ぎるわけでもない加減に基づいて行われているということを少しでも科学的に実証していくことにこの主体性の新しい見方は役立つのはないかと思う。
 そういう意味では、プロ野球のピッチャーのように「ボール1個分の出し入れ」をしていくような仕事が実際にプロの教師によって日常的な授業計画で行われていることに着目するのも悪くないのではないかと思います。

 私がいつも言うようにこういう細かな自己研鑽の視点を磨くことを教員としてきちんと仕事化すること、そしてその仕事をするための時間保証が真っ当になされることが教員の仕事がやりがいのある、社会的に意味のある、その上働きやすくなることにつながるのだと思う。カネの問題ではなく・・・

 この方法はかなりの複雑さと労力を要するに違いない。
 ただこれについてどこかで実践してまとめる予定です。さらに続きます。



この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?