学校現場の心理的安全性

 学校現場において心理的安全性がはかりにくいという話。
 心理的安全性に関わる勘違いはまず大きな障壁になります。
 チーム〇〇小はよく使われるキャッチフレーズだが、掛け声に意味はない。クラス目標やめあてを始めに書く、上級生の演技を下級生に無理やり見せるという「形だけ」が実現した取り組みと同様である。それが実際に見た人間全員に浸透することを目指しているかどうか、そのための工夫がなされているかが大事なのに・・・ということです。
 チームを作ることが目的ではなく、有効な取り組みをつむぎ出せるチームになるために必要なことを考え実践することがチームになる意味でしょ。チームを作るのではなく、チームワークを作り出すと書いてあるビジネス書に近いですが学校現場ではさらに誤読されそうです。目指す結果が事前の前提になっていることになぜか気づかないで走り始めるのである。そして非生産的に走り続けていきます。
 実際に学校現場はこの「形だけ」を無数に作り出しては自己満足している。ブルシットジョブの大半はここに属する。しかしこのブルシットジョブは、思考の深さがなければかなり見えにくいものになっていることを承知しておかなければならない。
 一例を挙げれば初任者指導として、1年目教員に対して教室に授業の成果をベタベタ貼りまくる(そろそろ3学期も終わりなのに7月や9月のことが貼り続けられていたり、教科が異常に偏っていたりしても気にしない)ことを示唆する人間がいるのだが、この人間は同時に在籍学校を批判するときに「謎ルール」という言葉をよく口にしているんです。自分の行為がまず「謎ルール」の強要になっていることに気づいていないのでしょう。
 常に業務が形骸化することへの注意を払わなければならないのだが、この形骸化は自分たちが率先して作り出すものであり、伝統化して神聖不可侵にしていくのも自分たちであることに気づかなければ、心理的安全性の足元としてはおぼつかない。しかし同時にこの気づきさえあれば心理的安全性が保てるという不思議な枠組みであることも理解しておかなければならないというややこしさがあります。
 なぜお前にそんなことがわかるのか?いい質問です。私は常に現場にいる。しかし、常に現場の権力構造の埒外に身を置くように意識しているからです。全ての人間から嫌われていると思っているし、全ての人間から評価されていないと思っている。メンタル的にはきついですが・・・心理的安全性の基本のキはここです。それでも全ての他人とは常に関わる。さらにメンタル的にきついですがクレーマーと関わる時の感覚です。私は関わる全ての人間がクレーマー感覚なので(ゴルゴ13みたい)・・・一ミリも出世のメリットはないですが、これを実践すれば自ずと心理的安全性とは何かがわかると思います。

さて実践編。いくつか視点と課題があります。 
 まず方向性の問題。実践として全ての人間に対して心理的安全性を発動させていかなければならないのが、教師の辛いところです。ある一部分にだけ心理的安全性を発揮しますでは心理的安全性の実践としてむしろ逆効果です。焦点化より広く薄くに意味があります。子どもにも、保護者にも、同僚にも、管理職にも、地域の人間にも、電話の相手にも、出入り業者にも、異業種にも、校門前でチラシを配っている人間にすらです。教員として接せられることでそれぞれに相手が感じそうな心理的安全性の阻害を己の身のうちに取り込んでいくことは実践上大事だと思います。
 次に鍋蓋構造の問題。現実的に学校現場で一番権力的に良くない効果を及ぼすのは鍋の蓋のつまみの部分に存在する管理職です。個人的意見として少なくとも学校管理職は低くても大学教授(私の中での日本の大学教授の学問的評価は著しく低いので)程度の見識は持っていなければならないと思っています。でなければ教員の評価ができないからです。教員なら誰でもわかることですが適切で効果的な評価というのは非常に難しい。私も今言語化に取り組んでいますが、少なくとも梶田叡一や田中耕治をほぼ全て読んでも目の前の子どもをきちんと評価するのは至難だと日々感じています。それぐらい私にとって評価の先行研究の言語化は不十分な代物です。そしてその学校管理職を選考するのは教育委員会ですからここにはさらに際立った評価能力が必要になります。ここまでくるとありえない無理ゲーなんですよね。無理ゲーに参加するのは知性のかけらもない人間でしょう。過去盛んだった勤務評価闘争の資料を見ても、およそ評価と呼べる代物ではありません。恣意的を通り越して露悪的です。それが狙いだったことは歴史的事実ですが。
 話がそれましたが、鍋蓋のつまみをよく観察していれば、学校で心理的安全性がはかられているかはよくわかると思います。付言しておきますが、あなたにだけ優しくしてくれる鍋蓋のつまみを高評価してはダメです。人によって態度を変える人間はいつ何時自分の都合でその矛先をあなたに変えてくるかわからないからです。保護者に厳しく教員に優しい鍋蓋のつまみを評価する教員もいますが、それは違うと思いますよ。
 最後に同僚性の話。
 ここが悩みどころです。企業の働き方が参考になるので、海外のビジネススクールの教科書を援用する大学教員がいるのですが、まあ参考程度ですね。そもそも存在の目的自体(社会貢献を全面に謳う企業がビジネス的に成功した例がありません。使用価値の追求と金儲けが圧倒的親和性が悪いのは自明、環境を謳った某企業がM7から脱落し始めている)が違うし、専門性集団でありかつ「先生」という仕事の特殊性を抱えていることも企業とは相関が薄いです。
 だからこそ、今管理職や異業種を除いた学校内の同僚性における心理的安全性は作り上げたいと思っています。マニュアルではないやつを。「できた。できてる。」というのはさほど難しいことではないです。子どもと一緒で言えばいいだけだから。
 シビアに見ること自体が難しく、コンプラやハラスメント、老害といった弱者道徳が邪魔してきます。老若男女、上下左右全てが阻害要因になる可能性があって四苦八苦しています。それは逆に、完全自由で完全平等であることの具現化(実は全く逆である可能性もあります。逆もまた真なりなので)を意味しているという実感を持たせてくれるのですが・・・
 成員全員に対して自分の立場を決定して語ることを求め、全ての語りを全員一旦受け入れることを求める。その時、細部は間違っていてもいいからとにかく語ってその間違いをも受け入れて咀嚼しあう。また他者の語りを全て受け入れてから自分の語りをアップデートさせていく。聞くだけでうっとしいし、絶望的に時間がかかるこの取り組みを強要ではなく、自然発生的に雰囲気としてコントロールするような研修を教員の業務として保証しながらさらに言語化する作業。ほぼ妄想です。でなければ神の御技か?

 この考え方に至るためにほぼ1年間を費やしました。実現の細部は固まりつつあります。その根底にはいくつか挙げた障害もありますが、差し当たっての前提を書いてみました。御笑読いただければ幸いです。

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