指導のシチュエーションを忌避する教員 後編

体罰や不適切指導への経路

 体罰教員がやらかすのは目標設定にムリがある場合であることは先に述べたとおりです。
 問題はその理由です。学校文化、同僚性に起因すること、つまり内輪の事情によるものと管理職、教育委員会、文科省といった外部事情によるものの2つが教員の内面を突き動かしたことによると思われます。
 どちらも内輪の事情に思われがちですが、この二つは根本的に射程が違います。
 すごく単純に言えば、内面への作用方法に違いが出るといえば良いのでしょうか?昨日、東京都の1年以内の離職者数がここ5年で最高になったというニュースが出ていましたが、ここにもこの2種類の問題が如実に現れていると思われます。 

 文科省発からの理由で作用する場合というのは、教育システムという大きな枠組みによって個人の内面が動かされます。これは個人的な視点から見れば、よほどひねくれていない限り、自明として受け取るため 悪いのは自分だと感じてしまいます。大きな枠組みに合わせられない自分が変だという捉え方です。今の若者のすごいところはこれが理由であっても大枠に合わせずに辞めてしまうところです。
 心理学の知見に自傷と暴力は同根であるというものがありますが、そういう意味では、体罰と辞職という一見無関係な事象にも同じようなことが考えられるのかもしれません。
 同じく外部要因に対して自分が悪いか、他人が悪いかという捉え方で違いが出るという示唆に運転者のシフトレバーのエピソードがあります。教習所の指導員さんが教えてくれた話なのですが、運転中にロックのかかったシフトレバーを折ってしまうのは圧倒的に女性の方が多いそうです。シフトレバーが動かない場合、男性は車のせいにして自分は悪くないと考え、女性は自分に力が足りないために動かないと考えるそうです。そのため火事場の力を発揮して折ってしまうんだそうです。このご時世に全く合わない話で私が有名人なら批判の的になる話なのでしょうが、実はこの話は非常に示唆的です。ちなみにジェンダーと性別の話は本来別々に考えるべきものなのにフェミニストの中にはごちゃ混ぜになっている人が多数います。社会活動として一定の影響力にある人でもそうなっていることがあるのが日本でフェミニズムが本格的に始動しない理由だと思います。
 
外部要因に対して自分が悪いと考えがちな人間はウチに溜め込み、他者が悪いと考えがちな人間は他者を攻撃してしまうということです。

それましたが、こちらの方は社会学における一般的な権力の理解だと言っても差し障りはないと思います。
 もう一つの内輪の場合は、ちとややこしい職員室における同調性のことです。これに校長が荷担することがあるので分類上ご理解いただけないかと思うのですがそれは管理職の人間性の問題です。基本的に意味のわからない、だれも説明できない自分勝手なルールで、ルーティーンでそのときの気分で同僚の一律性が担保されます。実はみなさんが思っている以上に日々職員室でやりたいとやりたくないが矜持としてヒソヒソとぶつかりあっているのですよ。

 この二重に重なってるのか重なっていないのかもよくわからない、どちらが上位概念なのかもわからない、ここに妬みややっかみが載っかった不思議な抵抗しにくい枠組みと自分にズレが起こることが教員を追い込んでいきます。
 ズレを感じる前に指導に必要な矜持を捨ててしまって楽になる人を一概に攻められんと思う自分がいるのもまた事実です。

さらに自己保身という悪循環

 こういうシステムで起こる問題というのは、先にも述べたようにこういうことはダメですと明示的に指導することに何の意味もありません。
 それは指導ではなく、ただの伝達です。
 いじめダメと言ってもいじめは起こるし、体罰ダメといっても体罰は起こるでしょ。
 具体的には今の学校現場では現場には一人で抱え込むことはダメという指導がウエから入り、その対処法が例示されます。しかし抱え込みが起こる過程を考えればこの伝達には何の意味もありません。如何に策を弄しようとも問題の根本には近付けないからです。というか同僚があら探しに奔走したり、責任の所在を明らかにしようとすれば(もちろん良かれと思ってやっています)余計抱え込みを助長したり、抱え込んでしまわざるを得ない人を追い込んだりします。抱え込みが起こるのは文科省の取組のせいだということがわかっていないんです。
結果、原因探し沼にハマってしまうしかありません。解決しようとして動いてより状況を悪くする悪循環です。原因など明らかにしても解決のためには何の役にも立たないにも関わらず。
この悪循環は隠蔽や複雑化という副作用をもたらします。実際いじめも隠蔽もなくならないのはこの悪循環にコミットできるほどの長期的スパンで政策決定に関われる高度な専門家が大学教員のなかにほとんどいないからです。というか文科省の出先機関に文科省の改革は先導できません。

教員のシチュエーション構成力

 指導の仕方については様々ありますが、今の教員による指導を難しくしている状況から遠ざかるための方法を考えてみました。
 というのもこれまで書いてきたように、指導に対する無責任な状況と指導に対する抵抗し難い力というのは教育そのものの崩壊を誘導していると思うからです。これがある勢力の一つの思惑であるなら対応の仕様もあるのですが、権力性ともいうべきかなり読み解くのに難儀する力学に基づいた動きであるように感じます。これに対抗するのはなかなかに難しい。
 一つの提案として指導をコントロールすることはやめにするというのがあります。どう足掻いても攻撃対象になってしまう状況を指導が生み出してしまうという現実から回避するためです。もちろん指導を正当化するという真っ当な方法もあるでしょうが、弱者道徳や学びから回避、指導からの回避圧力といったことはその起源が国家権力にあるにせよ、ボトムアップされた権力にあるにせよなかなか強力で個人であらがうには難しい状況です。

 なので授業・日常生活の中で指導をする場、つまりシチュエーションをコントロールする方が批判が交わしやすく効果が挙げやすいのではないかと考えます。特に若手の教員にとって。
 具体的には学校の日常でモラル、マナーや技術に接する時間的な余裕を作っていきます。これであれば学習指導要領に抵触する恐れも少なく同時に学力偏重に対する非認知能力の情勢という言い訳も立ちます。
 またクラス単位の課題に沿うという観点からバラバラであるという状況にある程度の許容の範囲が設定できるのではないかということです。特に内輪の圧力はバラバラを嫌う一律性のために同僚性による同調圧力をなんとか維持しようとしてしまいます。どうにか個別性を摩擦なく担保することは弱者道徳によらず教員の弱者を保護することにつながるはずです。

 こうした取り組みはこれまでの教員の教え込み主体からコーディネーターへという変遷から一歩進めたシチュエーションをコントロールする主体としての教員という立ち位置への移動を意味します。
 こうした形での教員個々のオリジナリティの発揮形態が教員を新たな指導の主体に変貌させるのではないというアイディアで思った以上に長くなってしまったこの話を締めてみたいと思います。

 指導という行為により自分の矜持を次の世代に手渡せる教師が現場に増えればいいなという願いを込めて。
 それが教育に携わる仕事の醍醐味なんですがね。

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?