教育現場における対話づくり

教育現場における対話の対象

 教育現場における対象は常に広範囲。これが今の学校現場が持つ最大の困難なのですが、あまり誰も指摘しない。
 さしあたって学校の教職員が対話の対象として、最も重視しなければならないのは子ども同士と教職員同士であると思う。保護者との対話も重要であるが保護者が学びの対象ではない以上必然的にその優先度は下がる。対話とおしゃべりは違うから。
 子どもと教職員を同列に並べることに難しさを感じる方もいるが、学びの相似形たる両者は同じ手法で同じマインドセットで臨むのが効率的であるし、課題の所在や改善方法を掴むためには利点が多い。
 教育に正解がない所以であると思う。さほど対話は難しい。対話を取り入れた授業の授業者はトライアンドエラーのマインドセットでシビアな他者の視点にさらされる必要があると思う。

教育現場における対話の必要性

 そこまでして対話が必要な理由はなんなのか?昨今の教育において最も重要な要因が「意見表明」になってきているからである。
 評価観点の知識理解は意見のための土台であるし、思考判断表現はいかに意見を補完できるデータや理屈を考え、選び、伝えることができるかを指している。主体的に学習に取り組む態度というのは自分の意見を表明することそのものである。
 意見とは自分の立場の説明であると定義しよう。
 もちろんテーマに沿った立場の設定が必要である。ここで適切な立場表明にはテーマに対するきちんとした理解が必要になってきます。
 しかし、ただ自分の意見を固執するだけではダメなのできちんと相手の意見を理解し、どんな意見であっても一旦受け入れる訓練が必要です。
 意見というのは表明するだけではダメで常に対流させて、変質させていく必要に迫られます。独りよがりな意見には意味がないからです。ここでやっと対話の出番です。

対話をつくる難しさ

 先に述べたことを全てやることになると準備や実施に莫大な時間がかかることが誰にでもわかると思います。
 基本的に小学校では3年生以上において極めて時間的制約がキツイです。これは標準時間数と教科書のボリュームがあっていないミスマッチであってこれに関する教育委員会や文科省の言い訳をここであげる必要はないと思います。
もう一点は意見表明や対話というのは自発的な行為なので強要できない性質のものです。これを「真の発見」に結びつけることこそ対話の醍醐味なのですが、どうしても「偽の発見」に終始せざるをえません。であるなら対話でなくてもえーやんとなってしまうわけです。
 対話における時間と強要に対する課題はなかなか強固です。

対話をする時間の効用

 しかしその困難を差し引いても、対話する時間そのものは自己肯定感や他者寛容、自己寛容、他者肯定、我慢や挑戦など多くの感情や知識・方法の取得の時間となりえます。なりますとは言えないのが難しいところ。
 しかし授業に参加しているからといって子どもは全ての学びの可能性を全てを血肉にしているわけではないので同じことでしょうか。
 この時間を協働的に使用することは協働的な学びを行っていると言い張ることはできます。

会議する時間を対話する時間に変更する教職員集団づくり

 実際教職員の同僚性を最大限活かすためには対話は欠かせない。
 表面上の形だけのブルシットジョブが横行している教育現場において、削減と効率化には同僚性の対話による了解が不可欠になるからです。
 同僚は同じと書いて違うこと争い合うことを意味します。
 形だけの同僚はさしあたって削減が下手です。削減できなければ効率化は無理です。効率化できなければ変わることができません。
 学校現場の会議は肥大化と保守化の代名詞であり、小集団の対話が流動的に起こるようなイメージづくりと工夫が行われなければ学校はどんどんムラ化していくだけです。だって中高大学は完全な研究領域ムラ社会です。対話する時間を仕事視する(新しい日本語だな)風土が学校には必要です。
 実はスタートアップ企業では当たり前のこと。

聞く時間を対話の時間に効率的に変更する授業づくり

 聞く時間が多いという授業否定は聞き飽きた。実際そうでもないし、話を聞いて重要な点だけを取捨する能力は生きるために非常に重要。
 授業中、やってみて対話の効果的な成立が無理だと思った場合に対話を円滑にする手立てを打っていくのはなく、別の授業方法に変更することで授業時間を有効に使うことを許容する授業観が必要になってくる。
 子どもがやりやすい方法だけに先回りしていくことは必ずしも子どものためにはならないからだ。こちらも教員の同僚性と同じように小集団の流動性を活用できることを目指していくことが新しい授業づくりにもつながる。
 同時にクラス独自の学習集団づくりにもなっていく。
 少なくとも時間を効率的に使い教材を精選していくことで意見表明と対話のための時間をつむぎだしていくことは授業改善と言い張ることはできますね。

 どうやら今年は学年がどこであれ、対話づくりをやっていかねばならぬようなのでそこに現れる困難や愚痴もここに備忘録として書き綴ることになりそうです。
 文学的な作文を活用してうまく学問的な論述に仕立て上げるために実践を行えるといいかなと思っています。

まあなんにせよ、対話は必要、そして日本社会は対話が苦手です。私は特に。

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