熱中症対策?

 そろそろかなり暑い日がちらほら出始めました。
 子どもの場合、真夏より変化率が大きい時期の方が体への負担が大きいので注意が必要です。

 しかしです。熱中症って対策するものなのですか?もちろん学校教員というのは、最大限子どもの体調管理に気を遣います。だってアレルギー、熱中症、怪我・病気しやすい身体、言葉より手が出るお年頃、すぐコケる、すぐふざける、訴訟するぞみたいな親、首から上の怪我は・・・見逃すことは許されません。

 しかしながら、忙しい親の事情も考えるタイプの深い教師はすぐに親を呼び出すことを躊躇するのも事実です。対応に若干の遅れが出たことで何度怒号を浴びたことか?呼び出したら呼び出したで舌打ちされるのに・・・一体どっちなんだい?パワーー

 話を戻せば、熱中症も判断に迷う場面が多いです。
 どこに気をつければ良いか?マニュアルに沿っていてもなかなか危機回避はできないからです。全てが結果論の世界です。厳しいなあ。
 では全ての取り組みをやめてクーラーガンガン状態にすれば良いのか?
 しかも集団で?
 決まった時点で対策していれば大丈夫なの?
 一つのことを実践していれば大丈夫なの?
 たくさんなる熱中症なのと一人が熱中症になるのは何が違うの?

 何のどこをなんのために対策すればいいのでしょうか?
 それは教育活動全体から見て妥当なことなのでしょうか?

 コロナ全盛の頃になんも考えない管理職の言葉に「子どもの命最優先」がありました。そんなこと言わなくても良くないですか?わかりきっている。しかしそのためにやめた取り組みの半分以上は子どもの命とは全く関係ないレベルでの取組だったと後からはっきりわかっています。保護者が自分の保護のもとにその判断をするのは自由です。しかし教育活動というのは一度止めてしまえば、復帰は当たり前には進まなくなってしまう行為の積み重ねです。
 私個人的には教育活動において最悪の事態を想定するのは良くやります(これ実は現場ですごい嫌われるのよ)が、コロナ以降全くエビデンスのないことに注意喚起をして己の存在価値を高めようとする責任回避言い訳教員が増えてきたのもまた事実です。◯身さんかよ。一緒にされたくないですよ、こんなミソも〇〇もいっしょにしたような連中と。

 そもそもいじめ対策や学力対策、施設の安全対策、地震津波対策、不審者対策、地域対策、保護者対策、プール指導対策、持ち物対策などなど。

 今の学校現場は対策を仕事にする仕事で溢れかえっています。
 そしてやることと言えば、事前の決まり事や注意喚起を無限に作り出して「言ったよね」で全てをひねりつぶすことです。
 それが対策なのか?そしてその対策は事前対策と事後対策がごちゃごちゃになって教職員全体に呼び掛けられる。
 そりゃ言う方はそこそこ理解しているからいいかもしれないけど、聞いて実践する担任は山ほど降ってくるんだから大変です。処理しきれないし対応しきれない。この伝える側が無責任な様はマスコミに「命を守る行動をしてください」と言われるときの感覚にすごく似ています。この指令自体にはなんの意味もありません。
 自分たちの責任を回避するために事前のルールとして聞き手に自己責任を強要するやり口です。まさに責任ある命を守る行動への注意喚起から無責任に命を守れと命令する言い逃れへの転換そのものです。

 熱中症対策というのは、学校として教育機関としての最低限必要な取り組み(スタンダード)と外部的な圧力とのせめぎ合いの象徴的なモノのひとつだと思います。
 学校が対策を考えなければならないことというのはおしなべてそうです。
 もちろんですが、外部の意見が全て害悪というわけではありません。真摯に耳を傾けるべきものも少なくありません。しかしそれと同じくらい行きすぎややりすぎが実存するのも事実です。
 特に今のSNS全盛であればなおさらです。多分外部の要因がドメスティックな個人的事情だけを強調すればそうなることは自明なのでしょうけれども、問題はその個別の事情に対して学校が全面的に全力で対応してしまった場合なのだと思います。しかもそれがすごくかっちりハマってればハマってるほど大多数の外部はそれじゃない感を抱いて学校への不信の芽がにょきにょきするわけです。

 はっきり結論から言えば「対策」は、批判・いちゃもん回避のための言い訳づくりの価値ではないということです。
 対策のための対策や仕事のための仕事といったものを指してお役所仕事というように、その全く無意味なことが身体に染み付いている教職員というのが学校お役所には多数います。
 問題はこいつらではなくて、こいつらが撒き散らす価値観なんです。それを社会学では拡大再生産というのですが、実際学校現場では若手がこの毒牙にかかってねずみ講のように害悪を増やす主体になってしまっています。前にnoteした同僚性の一側面なのですが、これが伝統をつくりだすと言ってしまえばそれまでなんでしょう。しかし訓練のための訓練(訓練自体がよくわからないことへの対応なのに)をするようなアホを野放しにすることはより学校を多忙化させ、教職が意味のないものであるかのように外部に知らしめて学校のブラック化を力強く進めていってくれます。ここは内部事情としてなんとか処理していかなくてはなりません。
 結局結論はいつも通り、使用価値の高い対策とは何かを考える遠回りから、全体的な対話へ、そしてこの少し手前のカンファレンスをつくり、それをやっても文句のでない集団づくりを考えることから始ま流ということです。仮定条件を考えて、そのとき起こったことに対応する分岐を考える思考法をもってプログラミング思考と言いますが、これは失敗が許される場合に有効な思考法です。この考え方は子どもの学びや構えづくりには最適だと思っていますが、結果が全ての世界では当たり前のように向いていません。

 そして、熱中症の場合は何点かの特殊要因があります。ひとつはかなり近い射程に命の危険があるということ、もう一つその耐性と経験の問題です。
 これらが私が今現場で行われている対策のための対策に疑義を差し挟む大きな理由です。命を守ることが重要なのは至極当然。しかしやりすぎてしまっては大人の監視下で熱中症の経験を持ち、熱中症に耐性をつけるという教育の機能を根こそぎ奪い去ってしまいます。
 
 これは組体操や刃物、火の使用にも同じようなことが言えます。友だち関係にも。悪条件を取り除くことは一見安全への近道のように思えますが、学校生活よりかなり長い後の人生のことを考えれば、教育という大人の庇護のもとにおける失敗や経験は様々な意味で得難い耐性を獲得できます。
 少なくとも水を飲まない部活動を経験した大人はその部分においては優位な耐性と飲まなければどうなるかという経験則を持ち合わせています。
 自分の身体の不調の経験というのは感覚的に大変得難い訓練になるということです。だから熱中症になりましょうというのではなく、経験とさじ加減について、安全を配慮しながら向き合うことに対してヒステリックな応答をすることは子どものためにならぬ行為であるということを学校を取り巻く方々にご理解いただきたいということなのです。
 
 もちろんしっかりご理解いただけるように説明責任を果たすことは学校の責務です。学校側も言い訳や責任逃れに終始するのではなく、使用価値に向き合うための準備をしなければなりません。

 そうした準備や向き合いが仕事として、経験として時間換算されながら教員を育てていく組織に学校が育っていく伝統を作っていかないといけないなあ〜と熱中症対策の話を聞きながら思った次第であります。

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?