結局、学びの多様化学校とは何なのか?

 この四月からまさしく雨後の筍のように学びの多様化学校が湧いている。所詮不登校学校である。学校の良さをなくした学校に過ぎない。これならまだN校のほうが潔い。ビジネスの視点から独自性があるからである。こうしたパブリックな疑似ビジネスが全て失敗するのは公務員にビジネスは下賎なものという発想があるからである。なにも産み出さない行政のほうが遥かに下賎であるにも関わらず。

不登校特例校という学校

 すでに名前の中にいくつかの矛盾を内包していて突っ込みどころ満載です。でも紅麹で再度証明された商品名やあおりに騙されやすい日本人はここでもその力を存分に発揮します。

 不登校は学校に来ないから不登校なのに。これまで特例を認めてこなかったから、学校に来れない子どもがうまれてたのに今更認めんの?学びたくないから来にくいのに学びを推すの?多様化が苦手だから来なくなる子どもの方が多い肌感覚があるんだけど大丈夫?そもそもそんな学校じゃないもんパブリックに作っちまったら大量に義務教育から離脱者が増えて余計不登校が増えるんじゃね。
 ほんとに行政に関わる人間は制度の建て付けが下手くそだね。こんなもんやる前からうまくいかないのわかりきってるやん。

学校に来にくい子どもを来させる方法

 これは実はいくらでもやりようがある。
 一番簡単なのは楽しい雰囲気でクラスルームを満たすことである。学校に来るために必要な愛の量は子どもによって違う。もちろん愛の量を読み違えて来にくくなることはどの子にも起こるリスクではある。実は小学校教員は今ここのさじ加減に最も注意して注力しているといっても過言ではない。それでも一人が一日に放出しきれる愛の量は決まっているので配分の加減をしくじってしまうこともある。熟達してくると一定量を分身させて複数人に使ったり、加速してぶつけて威力を増やしたりすることもできます。オラ悟空みたいだなぁ。
 ここまでやっても不登校傾向にある子どもはいかんともしがたくなることはある。しかし少なくともこの分野においては小学校教員には一日の長があることはまちがいないです。

 となるとこの学びの多様化学校自体の建て付けは一つは雰囲気、信頼関係づくりと個々の学びの再構築ということになるだろう。これだけきちんとやれば少なくともはフツーに学校に通っているのと同じになってしまうのだが、、、

支援・伴走という発想と主体性

 しかし、問題はここからである。不登校児童にとって通常に戻るために必要なのはフツーに接してくる人間に対してフツーに返答して上手くやっていくことである。
 これは極めて個人的な事情の話であって、それゆえ実はもともとできていることをできないように振る舞うことでサバイブしている子どもが存在しているという事実があることとも繋がっている。
 こうしたことを踏まえた上で不登校の克服を積み重ねとして理解するか、突発的事項として理解するか、それとも日常的な選択の結果程度に考えるかによって対応方法が変わってくることになってしまう。

 この時点で個別の支援計画というものへの懐疑が浮かんでくる。
 通常学校というのは、学習指導要領によって目標が定められ、良くも悪くも全員が一点を目指して進むことになる。
 しかし個別の支援計画というのはこれを無視し、個人の事情を優先させて教育の営みを設定していくことを指す。
 実際に特別支援学校や特別支援教育では子ども個々の支援計画が存在しており、すでに教育現場にとって馴染みのあるものになっている。子どもに合わせること自体は本来歓迎すべきことでウデのある教師にとっては非常に好都合でかつ子どもにとっても最大限の能力開発につながることであるが、これには2つほどの問題があると思う。

 1つは子どもに対する見立てがゲンジツを掴んでいるかということである。特別支援教育においては通常の子どもより課題がわかりやすいことが多く、また目標を低めに設定することによって意図せず同じことを繰り返し行うことができる効果も期待できる。 
 しかし不登校の子どもは実際に必要な手立てが非常にわかりにくい。不登校の原因探しというのは非常に不毛であることは教員ならよくわかることであろう。
 ゆえに学校側の見立てが間違っている場合の視点の立て直しは非常に困難だと言わざるをえない。

 もう一つは子どもの側の問題でその支援を受け入れることがコクフクにつながるかということである。不登校をつまずきと捉えることに拒否反応を起こした保護者の話を以前書いたが、つまづきは悪いことではない。もちろん不登校もである。
 課題解決という観点はいかに完成した超人であっても必要である。単純な二面性の考え方であっても良い面は悪い面の裏返しである。
 ただ学校に来るという表層だけをなぞることは将来的な子どもの幸せを保証することにならない
 そこに課題の克服という明確な目標が存在して、結果としての自己変革が起こらなければ意味がない。それはわかりやすく言えば、つまずかない人間になるか、つまずいて寝っ転がっていても気にしない人間になるか、つまずいても起き上がれる人間になるかである。どれが一番役立つかは小学校一年生にでも分かること。
 不登校の人間はつまずいた時立ち上がらずに凹むだけの人間であることが多い。しかも現状の学校はつまずきの除去のような対応には非常に手慣れている。一部の教科知識習得に特化してその他の常識を欠いた中学校や高校のような強硬な態度を取る学校を除いて。
 そのことを前提条件とした場合、学びの多様化学校を居場所として居心地のよくするだけでは子どもの自己変革を生み出せるかどうかは非常に疑問な部分が多い。学びの多様化学校の個別計画が子どもとその保護者にとっての自己変革に寄与できる立ち位置にいられるかは実は、家庭の側の受け入れのためのマインドセット、言い方は構えでも困り感でもなんでもいい、にかかっていると言っても過言ではない。
 この個別指導に関わる二重の困難は非常に抜け出しの難しい問題である。解決にはシビアな評価を必要とするのだが、おそらく不登校の子どもも学びの多様化学校もこのシビアを最も嫌うだろうからである。
 あるポイントに対して(それは対象の子ども個人の内面に対してだけでなく、生育歴などの保護者や家庭の課題、その子どもを取り巻くクラスの子どもなどの学習環境を含めて)シビアでなかったことが不登校を引き起こしているのに、シビアであることを嫌うことは外部要因による問題解決を不可能にしてしまうことを指すのに十分ではないだろうか。

 つまり伴走や支援という発想では、寄り添うだけで解決しないというジレンマを長い時間続けることにしかならない。もちろん長回しのハプニング待ちというテレビ番組作成の方法のように時間経過によってある偶然で不登校を克服できることは往々にしてある。しかしそんなもんは行政が金をかけてやるには値しないパフォーマンスの悪すぎる見せかけである。
 さらにこのやり方は、状況をさらに悪くするという可能性を大きくはらんでいる。これはもう可能性の枠を確実に越えている。実際に小学校で行われるかなり難しい不登校事例はほとんど解決できずにさまざまな取り組みによってより状況を悪くしている。放置するという手をとっている場合のみ悪くはなっていない。もちろんどちらの場合も偶然改善する事例があるのは取り組みの有効性を否定するに十分な材料と言えるのではないだろうか。
 もちろん取り組みを全否定するわけではなく、特に小学校では、子ども園もそうだが軽度の不登校事例はもれなく解決する。そこの知見は大変有効であることは疑いない。

結局今までの学校と同じ

 もちろんやり方としては別の部分を突っついて、シビアな部分に徐々にコミットすることで状況を改善するやり方がないわけではない。私自身実際これで改善した事例をいくつか持っている。これはウデのある教師ならアンダーコントロールの事例であって特別誇るようなことではない。
 であるなら深刻な不登校事例を学びの多様化学校に持ち込むことは、ダメなところにおいてダメなことを重ねていく作業を続けていくことに他ならない。
 学校が今まで通りであり、より悪い場所を作られてよりダメな状況を深刻化させていくだけである。
 なんの意味があるのだろう?


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