読書ノート 中高生のための 「探究学習」入門 光文社新書

 読了。うーん。
 もひとつ納得がいかない。

 この本はこれでいいのかもしれないけれど。

 まず「中高生のための」がよくわからない。
 筆者の能力上そうなっているのなら、仕方ないのだろうけども基本的に教育は年齢によって出来に違いはあれど、学びの本質や効能は変わらないと思っている。
 今の中学校や高校、もちろん大学は言うに及ばず、は教科指導に偏りすぎている。
 教育の本質は人格の完成であって知識の伝達ではない。もちろん知識が形成されることを土台にして人格が形成されるのではあるが、知識のつかみ方は伝達だけが方法でないことがわかってしまったから探究という別経路を示し始めましたというところなのだろう。
 しかしすでに戦後すぐの学習指導要領で「自由研究」が課業時間中に行われていたことを鑑みても、別に探究学習が新しいものでもなく、何かを解決できる先見性を持っているわけでもなく、一度失敗した感じのものであることは自明だと思われます。

 この本を読んで、今こそ考えるべきなのは既存の教科教育をこね回してつくる探究学習ではなく、それ以外のところなのではないのだろうか?という問いが沸々と浮かんでくるのである。
 極端なことを言えば、一旦の完成を見ている中高生は言わんや、大学生や修士などの教科内容や教育方法については放っておいて、博士課程などさっさと解体するぐらいのことを教育行政が主導して、これらの教育現場においては公的な教育機関が別の手法を取り入れていくのが良いのではないだろうか?
 私学ではあるものの直近N・S高、ミネルヴァ大学などはすでにこの別の手法においてそれなりの成果と実績をあげてきている。
 しかも一般的には気づきにくいがオルタナティブな教育の方も長年の取り組みと実績を着々と築いている。
 誤解なきように断っておくが、それは公教育がイエナプランを取り入れるというようなお手軽な話ではない。こうした発想は公平性や中立性という意味で非常に危険な側面を持っているからである。
 しかも初等教育というのは特にその性格が強い。極端であるからこそ、この考えによって見えやすいのが、初等教育の本質的充実と高等教育の路線変更はセットである必要があるということである。
 そういう意味では本書のように緩やかな変更路線を選択する場合、中高生の探究学習を充実させるためには、小学校教育や幼児教育の中に教養や専門性を埋め込んでいくためのゆとりや余白を用意することは不可欠だと考えに至らざるをえません。
 実際問題小学校でも探究か探究型かは正直どちらでもいいにしろ、導入されることは避け難い状況になっている。
 これは一体「中高生のための」とどういう違いがあるのだろう?

 と言うのも、実際にこの書の中にある実践のいくつかは、小学校のクラブ活動や理科の授業でやったことがあります。
 別に珍しくもなんともないし、小学生でも指導できるレベルのものである。もちろん構造的に知識をプレゼンすることまでは至らないし、既存の学習事項に結びつけることも難しい。こじつけれることはできるんですけどね。しかもこの1人1台のタブレット時代にはググって正解を探してくることくらいなら小学生にもできます。本書はググった正解がうまくいかない要素が面白い実践を集めていることもわかります。しかし重ねて言うけどさほどの革新性があるわけではない。

実践における評価の重要性

 実はそれよりもこの本で問題だと思ったのは評価の問題には触れてあるものの中身がないことである。これはイカン。

 意欲・関心・態度の評価キジュンについては個人的に興味があるし、今でも意欲・関心・態度の視点から主体性について考えているので、本書において探究学習の評価について書かれている項に近づくにつれてなかなかワクワクしたのだが、読んでみて至極がっかりした。
 評価する項目について具体的なことは何も書かれていない。 

 しかも書かれていることは評価できないこと自体を正当化しているように感じられた。これはイカン。
 もちろんそういう意図で書かれていないのかもしれないけれど、今まで設計上評価がヌルッとした教育実践が隆盛したことはない。たとえ不完全であっても評価キジュンというのはきちんとお示しした方が誰の目にもスッキリして現場での広まりに格段の違いが出る。
 私が提唱することはここを意図的に不完全にするからいつも現場の教員には理解されない。
 今だったら教科となった道徳がそうなりつつある。
 なぜか領域の設定はわりとガチッとしているのに評価についてはヌルッとしていてカイゼンもされないという不思議。
 イシューとして自称専門家の綱引きが強いからなんだろうけれど、この辺が現場にとってはスゲー迷惑です。もうすでに現場では自称専門家がメシのタネにできる芽はありません。(おー種と芽の順序が逆だ)

 さほど評価の設定は重要です。残念ながらこの本はよくある尻すぼみ感がハンパない。読了の味が良くないです。嫌ミス以上に。大人の事情があったのかもしれませんが。
 できたら著者の評価観についてもう少し詳しく伺ってみたいところです。
 私は明確に大学のような相互評価のスタイルは否定します。
 日本の学術研究がヘンな方向に進んだのは相互評価の文化がない国に無理やり先進的だと考えた欧米のスタイルを持ち込んだためだと考えています。西洋の先進性という錯誤についてはポストモダンが話題にして解体したはずなのになぜか研究界隈では根強くしぶとく生き残っています。キリスト教の優位もなかなか揺るがないですし。

 結局、探究学習を令和の日本方学校教育のレールに乗せて教育改革としてセッティングするためには斬新な評価視点に基づいて新しい評価キジュンをつくり、評価から始まるPDCAをまわしていくことは不可欠だと思います。

 というのも探究学習がどの道筋をたどるかは今書かれている本の質に依ってしまう可能性が大きいからです。
 短期的に盛り上がればいいなら中身のない本を多産して稼げば良いと思います。
 
 骨太で愚直な魂のこもった本が一冊でもあれば、AI全盛の今なら日本の教育は世界に打って出ることも可能なんですがね。

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