特別支援教育における区別と差別

 対話をする前提として、まず相手が信頼できるかどうかが重要になります。
 聞く姿勢はもちろん問われるが、それと同時に最近は一連の対話の流れの中で変えないイシューをお持ちかどうかが話す相手に足るかどうかのモノサシになっているでしょう。
 相手が文科大臣でも保護者でも対話の前提は同じです。
 永岡前大臣は、国連の勧告に対して意味のわからないことを言い張った。
 さて次の人は大阪弁護士会の勧告に何を語るのであろうか?

 大阪弁護士会が勧告した特別支援教育の話題において今争点になっているのは能力開発か?一緒にいることか?に尽きると思う。
 ヤフコメに溢れる迷惑感は半端ない。迷惑と思うかどうかは個人の感想なのでお好きにどうぞ。教員にとってはそこはあまり問題ではない。
 多分教員が一番気を使うのは学級が崩壊しないかどうかというところである。
 教育は結果論なので、結果がうまくいけば問題ないし、うまくいかなければ改善の余地があったことになる。決して誰も責任を取らないけれど。

 国としては教育の機能を放棄することはできないので、特別視会教育対象児童に全学習時間の半分を元の学級ではない学習に見合った場で過ごすことを通達した。それはわかる。
 この通達の欠陥は、明確に子どもを分けていないことである。分けることを現場の裁量権に委ねたのである。まあ丸投げである。
 学校現場は業務上教育に従事しなければならないし、法令には従わなければならない。
 となれば現実問題として、通常の学級から取り出して特別支援教育の対象児童に個別にかなりの時間を割いて非常にパフォーマンスの悪い指導を行うことになってしまいます。実際に見ていても成果が上がっている指導を見たことがない。成果があったと言い張っても、そもそも通常学級での評価キジュンとは違う上にマンツーマンでは、評価の平等性や複数の目によるチェックの面で非常にビミョーと言わざるを得ません。
 担当教員の側からのメリットはありません。ノーチェックなので楽なことをメリットというなら教員を辞めた方が良いでしょう。しかし担任からすればいないと授業を一斉にある程度のスピードで進めることができるメリットはあると言えるかもしれません。しかしここは授業観をどう持つかなので一概には言えませんが・・・

 保護者が特別支援教育に能力開発を求めるかどうかは人によるでしょう。そもそも今の時勢、子どもの学習の出来不出来に関わらず学校教育の学習活動に何も求めていない層が一定数以上存在するわけで特別支援教育対象児童の保護者がどう捉えてもさほどの影響はないです。しかし易きに流れる子どもらしさから言えば、この部分も教員にとっては痛し痒しになる可能性は十分に残っています。

 これらの話は全て学級がうまくいっていれば、あとは特別支援対象児童の保護者と担当教員の関係性の問題だと思います。まあ学級経営がうまくいっていてもここに担任と周りの子ども、周りの保護者とのそれぞれに関係性の線を引けばいくらでも小さな感情のズレは起こり得ます。もし学級でうまくいかないことが起こった時はこのズレがもとで、大きな事件を引き起こすことになってしまいます。
 
 実際現在は、学級のトラブルのうちのかなり多くの事例に特別支援教育は顔を出しますが、なぜか担任だけがその解決の奔走する羽目になっています。

 今回の話は、大阪という特殊性、人権派?弁護士の久々の出番、普通でありたい(私はフツーであることにこれっぽっちも価値を見出せないので理解に苦しむのですが)という願いが見事に結実した思惑が国連勧告に便乗した形で表出したと言って良いと思います。お金も時間もかかるだろうに・・・と要らぬ心配をしてしまいます。

 ただ区別と差別の問題はどこかで線引きをする機関を設けないことには、ゴネ得や教員・保護者への攻撃を許してしまい、今以上に公教育への信頼感を損なうことになると思います。
 実は現場で最も困るのは、いじめや不登校、体罰、クレームや揉め事の中にグレーゾーンが存在してしまうことであり、そのことへ対処する線引き、もしくはバックアップ(もしくはバックアップがあるという抑止力)があれば、一歩手前で回避できる問題の方が多いと思います。今回のことにしたってそうです。
 グレーにグレーを塗り重ねて各方面におもねった文科省や教育委員会の綺麗事作文や責任回避アピールのせいで現場が非常に困っているということです。
 教職大学院義務化や奨学金免除、博士課程3倍増より文科省はこうしたバックアップ機関の研究や設置に力を注いでいく方が教員確保がスムーズになることをぜひわかっていただきたいですね。

 価値より使用価値を上げましょう。

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