教育における主体性の正体 #3 主体性の観点としての権力の弱まり

 だいぶこの話が長くなりそうなので、前段に結論への意図を書いておきます。自分が行き先を見失いそうですから。
 現時点の学校教育で明確に評価の対象となっている主体性は現状の「やる気」という見方でよいのか?そして主体性を高めることが学習効果と成員平等に連動するためにはどうなる必要があるのか?という2つの視点から突き詰めてみようということです。
というわけで、

教育における主体性の強まりを場の権力の弱まりとして見る見方

 先に見た新しい見方というのは、実証的に作動させるためにはもう少し精緻なデータを集める上での事前の設定と実践事例とそのデータに基づく分析が必要だと思う。これは今年の研究授業なんかの中で試してみようと思っている。

 子どもの主体性を言語化するにあたって不安はただ一つ。言語化したことは教育現場の実用に耐えうる存在になるかどうかということです。ゆえに「やりたい気持ち」みたいなふわっとしたどうでもいい観点を言語化しないことはとても大切です。もちろん皮肉です。
 一時期すごく言語化されて、言語化自体が全く無意味であることを証明してしまった稀有な例にアクティブラーニングという代物があったことは記憶に新しいと思います。
 ここまで大々的に宣伝してコケるものをアニメの実写化以外では見ない気がするのは、気のせいだろうか?口に出した奴は全員責任をとるべきだと思うのだが、
 と思ったらまだがんばってこすっている大学教員がいて笑える。
 ごくごく単純にアクティブでない学びがあるのならそれがどう成り立っているのかを説明してくれる方がよくわかるのだが、、完全に知識伝達型に特化したってアクティブな一側面は残ってしまう。なぜならアクティブ論者は総じて身体的アクティビティに限定されないと言いきってしまっているから。普通ならアクティブラーニングを説明してるうちに自分の言ってることがおかしいことに気付くはずである。
 まして学校のように成員が多種に及んでいる場合、しかも日本型学校教育のように高度な実践が平常運転で量産されていて、しかも歴史がある存在に対してどの口が今さらアクティブなどと言えるのか?本当に不思議で仕方がない。

 そんな分析するには複雑で厳しい前提をもつ教育実践において、主体性に着目するためにはもう少し高度な視点が必要になることがわかっただけでもアクティブラーニングの存在価値があったのかもしれない。

 では、主体性を際立たせるためには、アクティブラーニングという実践の説明方法ではなく、どういうものがあるのか?と考えたとき、行き先を方法や思想ではなく、場の設定によって主体性の発露を際立たせて見やすくするというのはどうだろう?と考えた。
 それは教師の側の権力の弱まりが学習者の側の主体性を産み出しているのではないかという仮説である。
 教師が権力的にふるまわなければふるまわないほど、受け手側の主体性が高まるという建て付けを持って、授業の中での子どもの主体性を分析していくのである。なんかありきたりだなぁと思われたらシメたモノ。これはたぶん言うほど簡単な作業ではないからです。
 しかし、これだと個人的な主体性とともに集団的な主体性にも着目できる。おそらく主体性という学力に対する補助装置は集団の視点が非常に大きい比重を占めるのではないか?そういう仮説も合わせて論考できればより主体性の中身を精緻に見ることができると思う。
 既存の授業をこうした見方でみる分析を寡聞にして知らないが、このやり方であればこれまでの日本型学校教育の授業でも主体性の高まった授業がいくつも存在してきたことがわかるのではないか?そしてどういう建て付けで授業をすれば見てくれにとどまらない、より効率的な学習主体として集団の一員になるのかを明らかにすることがてきるのではないかと考えたわけです。

長々と続きます。

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