遊びでつながる友だち関係
大人は子どもの友だち関係を心配しがちです。
特に新学期には顕著になります。
おそらくそこは保護者が介入すべきところではない。
そして大人が集団からの離脱の自由を承認するというルールがなければより子どもを苦しめることになるだろうということです。
集団でいることを善とする発想の被害者が不登校やトイレで弁当な人たちであることはよく言われるがこれは今に始まったことではない。教員になった当初から私は「別に自分がそれで良いなら1人でも良いんだよ」と子どもに伝えていました。子どもが1人でいることを選択することといじめや仲間ハズレは全く次元の違う話です。
友だちといっしょにいたいのに友だちの方が離れていく子どもの方が何倍も問題です。しかしこんな子どもの保護者に限って周りの子どもや学校のせいにします。
コミュニティ・オーガナイジングという本をチラ見して、子どもの遊びの話を思い出したことからが始まりでした。
まず子どもの遊びは明らかに大人の遊びとは違う。
次に子どもはストレス発散のためには遊ばない。
そして今の遊びの場にいる人間を指して友だちとするのである。
よってその場にいない人は友だちではない。加えていっしょにいても遊びが本意でない場合本人にとっては友だちであるという感覚が全くないこともあり得る。
また、すぐに友だちが変更になることもしばしばである。
子どもに親友理論や数は力みたいな友だちの定義を押し込もうとする大人がいるが、それにとらわれすぎてしまうことは子どもにとって不幸なことだ。
しかし子どもはレジリエンスの化け物なので、そうした大人の論理を全く気にもしないで乗り越えたり、大人の論理を身体に染み込ませてうまくそのレールの上を驀進したりする。
そのうち、心配をまとった保護者たちに対応するためにうまくいきにくい子どもを指してHSPとか繊細さんとかなんとかネーミングして区別していきます。いわゆるラベリングという行為です。
「ケーキを3等分」はこれと同じ原理で、何かを悪者にすることで都合の悪いことにほっかむりをして大人が安心することができるようにするロジックです。子育てや家族関係、生まれつきのアレルギーやしょうがいというのは、保護者にとって子どもへの負い目になる可能性が非常に大きい部分です。
特に真面目な母親にとっては子育てがうまくいかないことというのはかなり精神的な負担となりますが、さりとてこの負担感がどういう形で表出するかはなかなか読めません。
そのまま心配性の親として現れることもあれば、全く無関心を装って放置することによってその負担感から忌避することもあります。後者は大江健三郎がしょうがいを持った息子に対して精神的な子捨てを行ったというエピソードに非常に似ています。
教師としてはどちらに現れた親ともきちんと対話していかなければならないというアポリアを抱える羽目になってしまいます。実際放置系の親との会話はなかなか難儀なのですが・・・
この話が子どもの遊びや友だち関係とどうつながるのかというと・・・
学校における親という困難
子どもと親の思いというのは、常に剥離しがちです。
子どもの遊びというのは、人間関係づくりの基底です。
それを親の都合によって左右することがやめた方が良い。
その遊びによって活力を与えられるのは友だち関係であり、学びであるということだからです。
餅は餅屋などというつもりはありません。
しかし小学校においては担任教員というのは親よりも長く濃密な時間を過ごす存在です。その責任の重さを痛感するわけですが・・・
さればこそです。
行為の価値で繋がる人間関係の元になる遊びを承認するか否か?
そうして子どもがみずから築き上げた人間関係を承認するかどうか?
それでも遊びや人間関係にブレーキをかける必要があるときにどうするか?
これらの問いに対しての教師が自分の立場を表明できない様を表したのが昨日言語化した指導そのものを回避しなければならない教師の現状です。
子どもは子どもらしい存在です。
やさしくもあり、残酷でもあります。
友だちも大事だけど、自分はもっと大事です。
すごい復元力をもってるけど、すぐすねます。
おしゃべりなのに、何を言っているのは分かりません。
なんにも知らないのに、偉そうにしたがります。
まだ学んでいないのに、世界の全てにコミットできます。
自分の気持ちも表せないのに他人の嫌がることは知っています。
笑いのセンスがないのに突然おもろいこと言います。
子どもってそんなもんです。
同時にすごいもんです。このアンビバレント具合を周りが理解してあげるだけでもずいぶん違うと思います。
最終的には子どもは保護者の選択権に委ねられるのでしょうけれど、そこに幾分かの教師の立場が介在するに関して特段のご理解とご協力をいただきたい。
それさえあれば日本の教員はそれなりのパフォーマンスを発揮します。
特に子どもらしい遊びとそれに伴う友だち関係は(義務教育学校とりわけほかより期間の長い小学校においては)後の集団生活の基盤としてとても大切です。
友だちが大事なのではない、友だち関係が大事なのだ
遊びが大事なのではない、遊んだ時間が大事なのだ
今となっては子ども時代を振りかってそう考え、教師という立場になってなおそう考える今日この頃。
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