教育における主体性の正体 #1

 教育における主体性とは何か?というのはおそらく唯一教育学とりわけ教育哲学でのアプローチしかないのではないだろうか。
 というのも主体性を見るとき主体そのものを何が起因させるかが実は困難なのだということに気づいている人がそんなに多くないのではないかと思っているからである。

心はどこにあるのか

 よく言われるのは心はどこにあるのかという問いである。
 全く同じ視点から見ても一体主体性は何に起因しているのかということは、問えると思う。
 この問いに応えたものは数多くあると思うが、そのスタートはやはり心理学になるのではなかろうか?しかし、自己肯定感でnoteしたように人間の内面へのアプローチに対しての心理学はこと教育に援用するには少し無理が多すぎる。
 まず心理学には個人的な側面と社会的な側面しかなく、意識的無意識という見方があっても相互作用にまで突っ込んだ研究結果は途端にその再現性がアヤしくなってくる。吉本が共同幻想論で個人幻想や対幻想を持ち出してきたことが、非学門であることを割引いても心理学におけるこの部分に対するアンチテーゼだったのではないかというのは深読みではないと思う。
 こうしたことに沿って考えるとやる気を表に見せれば主体性があるという評価につながるという至極単純な見方は、教育に身を置く人間としては、ただの懐疑にしかならない。
 少なくとも日本型公的学校教育においては集団的な取り組みが基底にあるのだから、ある場面での個人的な感情の露出だけを評価の観点とすることには真偽の面から見ても学習の成果の面から見ても、何より客観性の面から見てもとても好ましいこととは思えない。

性格や好き嫌いを含んだ不思議な尺度

 幾つもの研究結果が主体性の尺度を作り出そうとしては失敗している、、、と思っている。
 とりわけ主体性を評価する尺度の難しさは群を抜いていると思う。
 先にも述べた理由から心理学が語る主体性の尺度はより当てにならない。
 どこをどう捏ね回しても心理学的アプローチでは、コミットできない領域だからだ。学校における主体性は個人的な部分だけでも集団的な部分だけでもない相互作用的な面がある。そこに教える側という要素が加わる複雑さを包含した心理的分析の先行研究を見たことがないからである。
 その証拠にいつの時代もいつの場所でも心理カウンセラーの語ることは学校で起こることの一側面しか表せていない。しかもカウンセラーは一人の人間の個人的なことしか語らない。もちろんそれで一人の人間が救われることもあるがそれだけの話である。学校に横たわる問題の根本にはさわろうともしない。ゆえに、スクールカウンセラーが解決しようとする課題には未解決、再発もしくは形を変えて表出することがとても多い。難しい課題だからと言ってしまえばそれまでだが、現状スクールカウンセラーとスクールソーシャルワーカーという選択肢があるせよ集団的な関わりについて多方面の立場を考慮して話を進めることは全くないのだからどれだけ多様な人材を手当てしても結果がそこに行き着くのは当然であろう。
 アドバイスをすると言っても、一定以上の話はできないから個人も集団もみる教員にとってスクールカウンセラーのする話は?マークの飛び回る話でしかしない。パンデミックを防げないお医者さんに似ている。でもそういう仕事なんだから仕方ない。 
 しかしその前提はなぜか語られないまま、教育のあらゆる場面で心理学の知見が当然の論拠として登場するのは不思議としかいいようがない。ちなみに日本の学習評価でこすり続けられているブルームは心理学者である。

 さて現実にもどろう。
 評価としての主体性について語るとき、その語る主体は一般的な主体性というものを見ることに無理があることを理解しているらしい。

 だから教科ごとの主体的に学習に取り組む態度などという表現が持ち出されるのだろう。
 しかしこれは技術的な話だけではなく、個人的な性格や好き嫌いを内包してしまわざるを得ないという非常に危険な前提の上に成り立たせている評価のやり方てある。
 今流行りの非認知能力という括りなのだろうが、教育現場にとっては実は迷惑極まりない非科学的な代物である。
 特に小学校段階では非認知能力が定量的に測定できて明日も同じ測定結果が出て次の学習内容の習得に確実につながることは、多く見積もっても半分にも満たない程度の確度(ただの経験則だが)しかない。その上短期間で全く逆の評価になってしまうこともそう珍しいことではない。(これはペーパーテストでもたまにある)
 結果、ペーパーテストの点数で評価したときと同様にできる子はできて、できない子はできないという当たり前のことを主体性の観点からも重ねて言っているだけになるという誰にとっても意味のないことが続けられる。
 
 今の文科省の通達での例示は、振り返りを見ることによって主体的であるかどうかを確認したり(ルーブリック)、主体性が見てとれる場面を授業の中に設定したり、ペーパーテスト以外のさまざまな制作の過程における多面的な評価方法の設定をしたりする(パフォーマンス)ことが主体性のモノサシになっている。
 このことは評価をするために学習の場を教員が恣意的に設定するという非常に不思議なことを言っていることになる。評価のための学習の場?確かに不思議ではあるが、指導と評価の一体化を意識するということは指導の前に評価が予期されることに対してむしろ推奨する立場であるように語られることも多い現象なのだということに気付かさざるを得ない。
 一周回ってこうしたことが一個の人間の主体性という内面が教科というただの枠組みに過ぎないものによって変わったり分けられたりするという発想自体が設定の時点でよくわからない建て付けになっていることを証明してしまっているのはないだろうか?
 本当に訳がわからない話なのに教員がみな平然とやりきっておられることに驚きます。
 さてどうすれば、主体的な取り組みというものをきちんと説明できるのか?続きます。

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