特別支援教育の現在地 脱構築に向けて

 これまで特別支援教育の現在地を書いてきた結論として特別支援教育を作り直してみるためにご提案をしてみます。
 これからの特別支援教育は理念に合わせて実践そのものを考え直していく必要があると思います。しかし教育現場というのはそう思い通りに動くものばかりではありません。支援対象児童とその保護者にとってきちんと機能し、公教育としての公平性が保たれれてどの子どもにとっても同じような効果(あえて平等とは言いません)が保証されていく特別支援教育が実現しなければならないと思います。 

 私事で恐縮ですが、この4月からは特別支援教育の関わりが深かった教員人生の中でも、さらに深いステージに進むことが確定的です。
 ということで今日が結論というわけではなく、現時点での考えという断りを入れた上で、これまでnoteした特別支援教育の理念や欠陥を鑑みながら、特別支援教育の現在地とは全く違うものを今可能な枠組みの中で考え直してみようと思います。

 こうした取り組みに関わってまずクラスルームという枠組みを外してはどうかという話はよく聞く。
 先日Yahoo!ニュースにもあったと思う。
 クラスルームは枠組みではない。その発想だと隣のクラスとの違いが説明できない。縛りはあるけど絶対ではないし、このご時世クラスルームを抜け出すことも行かないことも自由である。
 なんなら集団で親を動員してクレームをつけ枠組みを変えさせることぐらい昨今小学生でもやっている。クラスを枠組みと捉え批判するのは昔のイメージ・机上の空論しか知らない大学教員のやり口である。

 しかしこれまで指摘してきたように特別支援教育は別の意味でクラスを解体してしまった。子どもの面からも、教員の面からも。知らないのは学校外の人間だけであろう。
 しかしそれでもクラスルームは存在している。枠組みではないからである。
 学級王国とクラスルームは同義ではないので、これらの主張が学校王国を壊そうとしているのならばそれはもうだいぶ古い話である。学級王国で学級担任がクラスの王様のように振る舞っていたのは、都市部では20年以上前の話になってしまい私の知らない世界である。もちろんイメージとしてはあるだろうが働いてる者としては先生様ということがあったことは一度もない。親にも子どもにも罵られたことは山ほどあるが・・・
 イメージづくりに一役買う子どもの話というのは事実であったとしても、実際には現象を正しく掴めていなかったり正しく表現できていなかったりするので、それらを伝聞から信用して物語を形作ることの危険性は子どもに関わるプロの大人なら誰でも頭の隅に置いてあることである。信じる信じないの話ではなく。わからないのはプロでない人とプロを装った知識人だけである。

 クラスルームは学級づくりの結果の産物であり、子ども同士の関係づくりが形になったものである。だから作り方次第によってどんな形にでも変化する。さほど担任の影響力は大きい。それを指して学級王国という表現をするのなら、それはもうメリットもデメリットもごちゃ混ぜにしたただの批判のための批判であり、対話の材料にもならない瑣末な感想に過ぎない。
 この影響力をマニュアルのような方法で教育方法として活かす議論があるが、それは無理筋である。   
同様にここにAIによる分析手法や上手い人間のオンデマンドを活用すれば良いという意見もあるが、それも同じ理由でやる前から無駄であることは目に見えている。子どもの中にはどうしても覿面注意が必要な性質を持っている子がいるからである。
 それは優秀な会社の経営者がリモートを廃して出社を強要するのに似ている。必要なのである。
 とりわけ小学校中学年くらいの段階(男女差や個人差まで含めればこの限りではないのは教員なら誰でもわかる)までに限定して言えば、こうした集団づくりというのは担任に対面の状況と情熱さえあれば、多少の方法論に不備があってもうまくいく場合の方が圧倒的に多い。要するに上手い下手の問題ではないのである。

「できる・できないではなく、やるか・やらないかの話なんだよ。」
 結果論だが、結果だけにとらわれないところにも評価ポイントがある職種というのは教員以外にもあるが、往々にして学校現場にいる教職員以外の異業種とはこのあたり、話の合わないことが多くなってしまうことが難しい点である。福祉的な視点との親和性が悪いというのは前noteに書いた通りである。

 学校現場としては少なくとも集団はコントロールする必要があり、そのためには情熱を持って関わっていく必要があるのだが、この部分のいくつかの阻害要因のかなり大きな部分を現状特別支援教育が占めているのではないか。

分断から統合へ

 特別支援教育として子どもや教職員が分断されていることについてはnoteで指摘してきた。そしてクラスルームの統合について上述でいささか私見を書いた。
 おそらく特別支援教育が抱える分断というのは私が学生時代であった数十年前にも当時「障害児教育」という講義で議論の話題になった「すみわけ」という考え方からさほど進化してはいない。インクルーシブや心の段差解消などいろいろ言い方はあれど、その垣根を具体的に越える手法は社会的には確立されていない。差別が消えない理由とよく似ていて、ヒトの心は統制できないからである。
 よって特別支援教育がもたらす分断の状況を精緻に説明できている文章を私は見たことがありません。
 そういう意味ではこれまで私がnoteしてきた記事というのはかなり本音に近い公平な視点での今の特別支援教育が抱える分断の言語化ではないかと思っています。(手前味噌で恐縮です) 

 この分断を少なくとも小学校教育現場においてラディカルに統合していくことが、この間の国連勧告や大阪弁護士会勧告に対する学校教育からのアンサーになるのではないかと考えるわけです。
 
 少なくとも小学校教育現場では特別支援教育の考え方やインクルーシブの理念を持って教育実践を行っていくこと自体はそう難しい話ではありません。クラス全員の持ち味を生かしながら授業を進めることはこれまでも行ってきているからです。
 これがクラス担任制の強みです。教科担任制ではここまでの教育実践は行えません。しかもクラス規模が多い場合は当然実践そのものが難しくなります。今のクラス定数決定はこの辺りに弱点があります。
 私は特別支援教育対象児童がいるクラスこそ、その割合に合わせてクラスの総人数を減らしていくことをお勧めします。もちろんこのご提案は今の法令に反していますのであくまで私見です。ちなみに現状は担任以外の教員の人数を増やすことで対応していますが、これは分断を助長します。
 
 創造的な授業づくりも子どもの強みや弱みを鑑みて授業づくりすることも学年一律の取り組みとは非常に親和性が悪いです。今の学校現場は一律性を担保することでクレームから身を守る手法をとっていますし、奈良教育大附属の件はその顕著な例だと思われます。学習指導要領自体はある程度の弾力的運用を認め始めているので(弾力の程度をきちんと定義をしてください)その親和性が高まればこうした問題から少しは脱却できるとは思います。それ以上に学校自体や保護者、地域がクラス単位の個別の取り組みに対して理解を示していく必要があります。    現状のような支援対象児童による個別性ではなく、クラス単位の個別性であればそれによる相乗効果も見込めるし、分断についても考慮の余地が生まれます。インクルーシブの概念にもより近づいた実践になるのではないでしょうか。

 対象児童の配分について、その結果クラス人数が少なくなったり、特別な取り組みが増えたりすれば無理やり子ども同士に関わりやお手伝いを強要する必要も減ってきます。

 現状の特別支援教育やインクルーシブ教育の最大の弱点は周りの子どもに対する関わりの働きかけ方の面です。ただ「しょうがいしゃ」を助けることが善という価値観を子どもに押し付けることがその目的になってしまいがちですが、それは子どもの成長においてもちろんそのまま正の効果を生み出すこともあります。
 しかし同時に少なくとも2種類において蓋然性のレベルで負の効果をもたらすものと考えます。
 一つは助けること自体を嫌いになってしまうことです。嫌いならいいのですが無関心を装うという日本人特有の回避方法に向かうことです。これは小学校教育現場にいる人間としてのあるあるなのですが、日本の平和教育も同様の効果をもたらしていると思います。実はこれだけの時間やリソースを割きながら世界平和についての日本人のコミットは今恐ろしく低くなっていると思われます。多分原因は小学校の平和教育では戦争することの意味を教えていないからです。

 もう一つは自分の発達課題を支援児童に丸投げしてしまう子どもが現れてくることです。具体的に言えば、子どもは自分が苦手なことや嫌いなことに向き合っていくことで学べて成長できる面がありますが、それを回避するために特別支援対象児童を関わることでその発達課題と向き合うことを拒否できることを学んでしまうことです。簡単なレベルではあの子もやってないから自分もやらないというやつです。よりレベルを上げてくると優しい気持ちを見せかけに使って自分の評価やポジションを実際以上に上げていこうという意図を持って行動し始めます。

 この二つは周りの子どもの発達上あまり良い影響を及ぼさないと思われます。
 ここの脱却を狙った意図や価値観を持たない自然な関わりにとって大きな効果をもたらすのが特別支援教育に対してクラス単位を対象児童に割合に合わせて適切に小さくする。そして常時ではないがクラス単位での個別的な取り組みを行っていく。それを現状なら1年間というスパンで入れ替えていくを6年間繰り返していくことが私の提案する特別支援教育の脱構築になります。
 もちろん法令の範囲を越えているものもあるのですが、学校内での合意次第では取り組める要素がいくつもあると思います。
 そしてウデのある教師はすでにこうした実践を自分1人だけで行っているのです。
 この1人だけという小ささと1人だけというまとまりの強さが実はもっとも重要なファクターだと思っています。
 分断の種類を正しく整理して理解し、統合を狙うことが特別支援教育の私が考える現在地になります。
 いい感じにまとまったので、いずれ特別支援教育編のエッセンスだけまとめてリライトしようと思います。では出勤時間なので。


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