こうあるべき。自由な発想の教育を阻害する人間たち〜校内研修の話

決める会議と決めないカンファレンス

 物事を決めるとはそういうこと。
 それについては否定しない。
 組織である以上決まり事は必要。
 綺麗事だけでは済まされない側面だって必要でしょうよ。
 しかし、少なくとも対話には決めると決めないを分けてから話し始めないといくら話しても意味がない。

べき論の取説

 しかしです。
 であるならその前に組織論についての理解がしっかり進まなければならないハズ。進むべき?
 べき論を打破することは組織にとって有益になる的な話はよく聞く。しかし私はべき論を全て一括りにして否定する気はならない。
 なぜならべき論の行き先が必ずしも悪い方向に向くとは限らないからだ。べき論を批判すること自体がべき論であることもしばしば見受けられますし。

枠組みをコントロールする

 同時にべきを言う人間の話は枠組みを生み出します。ありがたいときもあれば、迷惑なこともあります。
 自戒を込めて言えば、その場合全ての枠組み製造人間が他者にとっての害悪になるということになります。枠組みが成員全員にフィットすることなどありえないからです。
 そうした考え方から言えば、管理職が決める仕事である以上害悪であることは致し方のないこと。どの業種であっても同様なのではないかと思います。

 決めない姿勢を全面に押し出す言い方にはマネジメント、コーディネイト、コントロールなどいろんな言い方がありますが、学校教育現場では指導もこの範疇に入ります。指導していても決めない、押し付けない形で授業を進めることも別段珍しいことではないからです。
 学習指導というのは、基本的に枠組みの中で行われます。その枠組みは基本的に教員が決めます。
 指導を忌避する話でもしましたが、同じ言葉で指導と一言に言ってもその実際の意味には締め付け満点のものもあれば、自由を許容するものの間で重なりのない数直線のように非常に幅の広いものになっています。しかも教育現場ではかなり受取方の個人差の大きい「子ども」を相手にしていますので、どう作用するかということについてはかなり集団によって差が大きくなってしまいます。
 何が言いたいかと言えば、どのように設計段階で作ってみても結果の部分では大きく差が出ることが良い悪いの判断基準にはならないはずなのです。同じ設計でも成員の構成が違う集団では、同じ出口にはならないはずだからです。しかし研究授業における指導助言者の助言はここに終始します。たまにここにはこだわらないよというスタンスの助言者もいますがそれはそれでかなり無責任な話になることになります。というのも結果に責任を持つこと自体が教員の仕事そのものだからです。
 私がいうコントロールの概念は設計段階を評価するのでなく、結果として現れたモノを設計段階まで遡って構築し直す方法を授業をやりながら変更したり再構築したりすることによって行うことになります。

ビジョンによって組織をコントロールする

 これは普通に授業をやっていれば至極当たり前に行われることなんですが、なぜか研究授業と公開授業になれば途端に完全に行えなくなります。これは授業研究を設計した人間がそういう枠組みを作ってしまったからです。指導案−授業実践−授業検討という一方法論を唯一の枠組みとして採用してしまったことは教職員の研修にとって非常にマズい側面を作ってしまったことは否定できません。
 成熟する一定期間まではそれで良かったという事後評価によってぶった斬ることを回避するやり方はソフトな指摘としては正当なのかもしれませんが、そのやり方自体がドラスティックなものの見方、そしてそれに基づく真摯な議論を阻害してきたように思います。

 今研修を設計するにおいて必要なことはこうした先入観(古い、多様性がない、固定観念、既得権、例によって言い方はなんでも良い)を脱却することなのですが、先入観の脱却が先入観になってしまうというジレンマを抱えてしまうことを事前に多くの成員が理解しておく必要があるのではないかと思います。
 実は集団の質は、集団に影響を及ぼせる程度(この程度いわゆる数は集団の種類によって全く違います)の人間の質が一定以上を越えているかどうかにかかってくるという単純な構造だと思います。これが越えていない集団では意図的に何かを仕掛けても想定以上の成果を上げてくることは五分五分というやってもやらなくてもほぼほぼ同じ結果を招くことは目に見えています。であるなら、結局学校現場において何を研究するにしても、そして多分に集団で仕事する場合において大事なことは、集団が集団自身の力によって自分たちのビジョンを紡ぎ出していく必要があることになってきます。
 少なくとも少数の集団を動かせる人間が自由な雰囲気をコントロールする能力もしくはその意識を持っていない限りはどんな仕掛けを行なっても、先入観のジレンマを乗り越えることは不可能になってしまいます。
 今の学校現場の実践を引っ張っている人間というのは、つまり書籍やさまざまなメディアや企業や行政とタイアップした実践に登場している教員というのは、先入観を越えた先にある先入観という個人的感想の枠組みを垂れ流しにしているに過ぎません。
 それは個別には優れて資する部分のあるものではあるのですが、一般化やテンプレート化として耐えられる代物ではありません。実践は劣っているということではなく、何度も言うように教育実践というのはそうした使い方をするモノではないからとしか言い様がありません。

 だからこそ、意図的にしろ無意識にしろ、こうあるべき的なこと、教育現場は未開の地だ的なことを教育新聞で撒き散らす害悪どもにイラっとするわけです。

 実はこの話、奈良教育大学附属小学校をイメージしながら書いた話。※イメージです。別に精緻に述べる必要がある話でもない。
 組織と管理職、教員各々が見かけ上まとまって研究することによって、一体何が劣化していくのかを考えながら逆を書いてみただけの話。

 校内研修が抱える課題はなかなか根深いです。
 固定的安定的な一つの枠組みを考え出すより上手く運営する方法を常に考え続ける耐久性と柔軟性の方が必須です。
 だから確定的に言えるんです。そこにエライ奴は必要ない。

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?