ふりかえりとは文書作成能力なのか?

 ふりかえり論者というのがいます。
めあて−ふりかえりという授業構造を正当化して広めそこから多角化経営していくことで他のロジックや方法論と結び付いていく増殖していくという理解で間違っていないと思います。
 まず納得がいかないのは、こやつらはなぜかこの方法が優れているので他人に広めたいと思っているんですね。他人に強要するのはいかに優れていようとも害悪でしかありません。
 ましてより優れていることが他にあるならさっさと引き下がるべきです。なぜそこまでふりかえりに固執するかがわかりません。これでは戦後日本の授業形式の固定化を決定的にした導入 展開 終末という創造性のかけらもない授業形式となんら変わりません。授業実践が未成熟な段階で定式化することには意味があるにはあったのですが・・・
 しかしふりかえりを導入することで授業改善が進むとのたまうのは、一体どういう論理構成なのでしょう。これらをまきちらしているのは主に文科省の天下りや附属学校の教員です。いわゆる実務家教員レベルの中途半端な知識人。あとはこれに飛びついた教育委員会主事や学校で自分だけがデキる気になってるだけの三流教員のイナゴたちです。
 こやつらはいくつかの定型句を吐きます。
 今までの授業はダメだ。よって授業改善が必要だ。
 子どもはめあてを示せば授業の全体像をイメージしやすくなる。
 ふりかえりを書けば授業内容が残り易くなる
 ふりかえりは何をかいても自由だ。主体的だ。
 ふりかえりにはさまざまなヒントがある。授業改善や評価、友だち関係、同僚性など。イノベーションにも使える。
 ふりかえりが書けなければマークでも絵でもいいんだよ。認知能力の低い子でもどんな子でも取り組めるよ。
 ふりかえりはルーブリックなどにも繋げて活用できる。相乗効果が望めるよ。

自己反省のキジュン

 これらの定型句たちにどれほどの科学的な再現性があるか甚だ疑問です。さしたる根拠があるように思えないんです。というか突っ込みどころが満載すぎて逆に笑えます。
 ふりかえりというのは、学習のまとめと違って自己反省です。であるならまず反省できるほど自分や学習成果、過程について客観視できる人間になっている必要があります。
 ここに至って自己反省できる人間についてを評価するキジュンが必要になってきます。別に過程を考えるんだから、慣れ親しむんだから、訓練の段階だからキジュンなど必要ないよ。そこに「ある」ことに意味があるんだよ。といった戯言にはなんの意味もありません。
 間違ってるから広がらないんです。間違ってるから使いにくいんです。取り繕ってなんとかしようしている様が笑えます。
 日本には梶田さんや田中さんが撒き散らかした評価イメージが蔓延しています。彼らは意図的にこのイメージを拡げたかったわけではないでしょう。しかし利用されてしまった。よくある話です。
 評価にはだれにでも納得できる側面が必要です。私みたいなひねくれ人間を考慮にいれても少なくとも半分ぐらいは欲しいところ。
 例えばルーブリックの卑怯なところはこれを自己責任として評価される側に丸投げにしてしまっているところです。あからさまに堂々と。
 評価者に生殺与奪権があるとなどは微塵にも考えませんが、責任を持って個人と集団の構築を構想する権力としての側面は否定されないと考えます。それを相手側に開示して手渡してしまうことは良いことはないと思います。しかも相手が未熟な存在であるなら、なおのことです。評価者としての責任を全うする必要があると思います。
 実は評価の問題は偏差値が非難されて以降混迷を極めています。評価しないことが評価だみたいなよくわからないことも言われる始末です。
 
 評価の大きな問題はさておいても、今のふりかえりは評価を放棄した状態であることが常態化しています。

方法が目的化している

 少なくともふりかえり自体に評価ポイントがない状況では、その存在意義自体がかなり怪しくなってきますが、なぜか学校として一律の取り組みを強要する状況が出てきます。
 おそらくただ一つの根拠らしきものは全国学テでこのやり方をした秋田が上位にいるからです。この論理自体がまやかしであることにはいくつか論拠があります。秋田の家庭状況が安定的であること、娯楽が少ないこと、非行件数の他との差異などの統計的な基盤の問題が前提として。学校教育の浸透性の問題、教師の権威、落ちこぼれ 落ちこぼしの数、不登校や特別支援児童の割合、学校規模など学校を取り巻く要因。そもそも平均点で競うこと自体が母数問題や偏差があることを考慮に入れていません。
 しかも沖縄がどうにか対策し、操作して最下位争いからの脱出を図ろうとしたように、これはもはや調査ではありません。今でも現場では無能な管理職は平均点より上か下かで自分の学校の子どもを判定しようとしています。
 学テにはさらに問題があって、上位県にはその後の学力を正当に引き継ぐ進学先が少ないことから小中での単なる形式的な学力が高いことによって逆に将来のキャリアプランを形成する上でさまざまなゲンジツに直面することに対応できていないという指摘があることです。
 これは実際に偏差値教育の犠牲者になった我々の世代にとっては大変身につまされるゲンジツ問題であります。どんなに奇をてらっても定式的な学力はバブル崩壊や就職氷河期やコロナ禍、大地震のような非常時に対応する力とは直結しません。
 もちろん非常時だけの力だけを殊更に強調するつもりは毛頭ありません。そんなことをすれば、3日に1回避難訓練になってしまうからです。陣内智則さんのネタみたいに。
 しかしめあて−ふりかえりは、アホみたいなネタのようにそれだけを推してきます。

 となると教員にできることはふりかえりの作法を流し込むことになってきます。見かけ上ふりかえりを成立させなければならないからです。それが良い授業の条件になってしまうからです。さしたる根拠もないままに。

ふりかえりの現実

 であるとき方法論としては二つに集約されます。
 誰にもできるスタイルにして、子どもができたことにしてしまうこと。もう一つは強制してやらせてしまうことです。
 おそらくふりかえり論者は前者を推すでしょう。「できたことにする」という文言の部分がうまく隠蔽して。後者は今のコンプラ社会にはあまりにもフィットしません。
しかし実利をとりに行こうとするなら後者だと私は思います。

 キチンした評価がないということは目的が持てないということです。それでも子どもにやらせるということは、さほどの無理が道理を押し除けるということです。もはやどんなやり方をしてもムリクリです。
 だから現場ではどんなに丁寧に説明しても最初はほとんどできません。というか子どもはやろうともしません。
 そんな子どもを見たときのカレらの反論というのがやり方が悪いとやってるうちにできるようになるです。こんなの反論でもなんでもありません。そう言われたら真面目な教員にできることは先に挙げた2つです。
 それが何かの役にたつと思えるなら雨が降るまで躍り続ける雨乞い方式を取り入れてもいいとは思います。しかしそれは文章作成能力以外の何かをこじつけることは難しいのではないかと思います。

 誰にでもできるふりかえりというのは、意見表明の主体として有益という論理構成はあまり当てはまらない気がします。わがままは子どもの特権だからです。わがままは意見表明そのものです。しかし他者に受け入れられる意見表明ではありません。それを子ども同士に学習上で受け入れられる意見表明にすることは深めることではなく、建前を覚えさせることです。不必要とは言いませんが、学習時間を割いてまでやらなくても遊んでれば学べることです。無理やり授業で両者を一体化させることは両方の良さをスポイルする行為だと思います。

 私なら意見表明をその程度のレベルで伝えてしまうという勿体無いことはしません。練習は必要だと思いますが。

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?