鎌倉市の取り組みをただただ批判する

 実際には新進気鋭の教育長が新しいサポート策を多数工夫したり、新任からバリバリ新しい取り組みをして4、5年で教育委員会に行ったりするという周りから見れば羨ましい限りなのですが、そこをただただ批判してみます。
 はっきり断っておきます。羨ましいし、実は私もこういう教員人生を送っていくハズだったなぁと思っていました。設計図として。でも全くできなかった。その後悔を言語化するという意味で批判してみます。自分でもわかっています。的外れだと・・・

教育長の取り組み

 文科省のキャリアというのは基本的に財務省スタートの最終面接で門前払いを喰らいまくった人間の行き先だという話を聞いたことがある。でも私は省庁の中で一番大事なのは文科省と農水省だと思う。そして最も必要ないのが大蔵省今の財務省と経産省だと思うのだが。
 実は明石市長だった泉さんもそうだが、こういった方達の行政手法というのは、本質的なところとは程遠いところで作用するやり方を選択して用いている。もちろん政治や教育行政は一人でやるわけにいかないのでさぞ抵抗勢力や障害要因が多くあるのだろうと推察して気の毒になってしまうが、結局本質から離れたやり方というのはいつの間にか本質から離れた結果に行き着いてしまうものなんじゃないかと思ってしまう。もちろん個人的な感想です。

予算の付け替えのマジック

 彼らに共通した手法というのが現存する予算を法の範囲内で付け替えて運用することでなんとか自分の方に筋道をつけることで見栄えを良くする、つまり教育や子育てで成果が上がっているように喧伝する手法です。
 しかしもちろんですが全てがバランスをとれた上で、行政が行われているわけではありません。行われていることが素晴らしいと思います。
 しかし本質的には理想論だとわかっていても、行政においてどこかに皺を寄せる形で見栄えを良くするような手法というのは一時凌ぎに過ぎませんし、そこにふるさと納税のような予算とも言えないような色物を使うことも未来のことを考えても良いこととは思えません。青臭いとはわかっていても、やらぬ善よりやる偽善だとしても、単なる統計予測だけで教育をいじることには制度設計上魅力を感じません。私は基本的には予算をドカドカ投入する教育には魅力を感じません。実はそこはマインドセットだけでなんとかなるのが教育のマジックたる所以だと思っています。

特別な取り組みより平素な日常

 故に、4年生が1000人の大人に会うことで世界を広げていくことより教科書を読むことで自分の世界が広がっていくワクワクが起こることの方がステキなことだと考えます。そりゃ見た目は絶対1000人の方がいいし、子どもの経験的にもそっちの方がいいに決まってます。教師としての人間的広まりとしてもこういう教員の方が周りに熱意に溢れた人間が集まってくるんでしょうね。これは個人的な体感としてもあります。キラキラした人間の周りには暑苦しい人間が集まってきます。ウェーっていう感じです。
 でもね。これってオンラインサロンの考え方じゃん。しかも1年間しか持たないヤツです。基本的にこういう人間はどこかで勘違いの連鎖から道を踏み外します。経験上。しかも日本は出る杭は徹底的に打たれます。だから出るんじゃなくて突き抜け過ぎろ。はよく言われる言葉です。多分うまくいく人もいるとは思います。
 でもTOSSにしたって、プロ教師にしたって、さまざまな教育サークルにしたって、まして文科省主導のゆとり教育やアクティブラーニングにしたって今の日本の教育に広がりも深まりも生み出すことはできなかった。私はここに非常に興味があります。日教組などさまざまな部分に理由を求める論考を読んできましたが、そこから思うのが単純に芯食ってないだけなんじゃね?という結論なんです。逆に教科の枠組みはずっと残り続けている。教員が一人で授業することも残り続けている。一時的な流行を跳ね返して・・・

 もう一つこの取り組みに対して言っておきたいことは本当に子どもの幸せにつながったのか?ということです。しかも全員の。おそらく何度も言っていますが、教育における時間は有限です。これに時間を割くということはどこかを削ったはずです。そもそも二分の一成人式が良いか悪いかは全くさておいて、これに時間を割かない学校だって日本には多くあるはずです。そうした全体的な視点から見て子ども成長発達に対してシビアな目を向けることにいささかも貢献しているかどうかが非常に大切だと思うのです。

日常の中で作り出す取り組みへのイイね

 日常の授業というのはどうしてものんべんだらりになってしまいがちです。
 でも常に子ども個々の課題や集団の課題にコミットしようと姿勢をもって授業を味付けしていけば、日常はそのクラスルームにとって個別に特別な授業に変身していくと考えています。
 そこにあるのは教職員の都合ではなく、子どもの、成員としての都合なんだと思います。
 授業づくりにおいて、児童観より指導観や教材観が濃すぎる授業をよく見ますが、教師のパッションというのは自分より子どもに向けられるべきという至極当たり前のことがよく分かりにくくなっている現状を憂います。
 もちろんマスコミというのは本質より煽り優先なので、そこが重点的に報道されることはわかります。特に書籍化する場合にそうなりがちなこともわかります。
 そこに憧れて書籍を出したり、NPOを作ったり、大学教員になったり、目新しいことに走ったりすることも理解はできます。
 でもね、愚直に真面目に真摯に目の前の子どもの成長に心を砕き続けることにもう少し厭いやベネフィットがあってもいいんじゃないかと思います。もちろん子どもからはもらっているのでそれで十分なんですけどね。


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