「聞く」風習がないクラスルーム

クラス始まりのワクワク感

 さて新学期も一週間ほど終わりました。
 私は「黄金のなんちゃら」を重視しません。
 これは教員の好みの問題で、好きにすれば良いです。中学校の場合は、一度緩めればそれでオワってしまうと思っている程度の教員の集まりなので非常にそこを重視します。最初の決め事で「縛り」を作ってがんじがらめにするんですね。生徒指導上も部活動の指導でも非常に都合が良い。生徒指導概念と部活動は日本独自の悪習です。
 私の場合はどこかで締め直せば良いと考えているし、締め直せる方法も知見も経験もあります。要はタイミングの問題です。別に最初でなくてもいい。

枠組みによる分析方法

 「枠組み」や「べき論」が問題視される大きな要因は変更の可能性がない硬直性です。
 〇〇なクラス、教師は〇〇するべきなどの考え方はマニュアル本によくあるスタイルです。さっきYouTubeを見てたら〇〇術もそうだと言ってました。
 哲学でも、学問でも枠組みを設定するか、解釈に委ねるかはスタイルとして二分されるもんですが、そもそもこの課題設定には無理があります。
 最近とみに言われるのは、枠組みを変更可能にするスタイルです。これが学校現場に援用しにくい理由は割と簡単なのではないかと思っています。
 それは共通認識が必要だということです。これは中学校における縛りなどと全く同じ概念でいろんな言い方があります。
 「共通認識」や「共通理解」を口にする人間を私はあまり信用しません。
 人権を口にする人間と同じレベルです。
 これらは少なくとも他人に強要するときに使う言葉ではありません。極端な場合を除いて。 
 これらの言葉は立場表明の議論において使われる言葉であり、「行き来」のための言葉です。一方的な伝達に使われる言葉ではない。意見がなければ反対なしみたいな気遣いのない会議をする人間は私にとって理解の外にいるということです。

共通認識なんてとてもムリ

 人間の構造や社会の仕組みを考えれば、共通認識が難しいことがすぐにわかると思います。そもそも夫婦でも無理なレベルのことをなんで職場でできると思うんでしょうか?マルクスガブリエルが道徳規範は誰でも一緒なんて言っていますがあれは非常にキショい。

一人の利点

 だからこそ私は変更可能な枠組みの実行は一人で行う必要があると主張しているのです。自分だけならいくらでも変更も訂正も可能です。枠組みを決めることだってさほど難しい作業ではない。
 学校現場でこの作業が難しい理由は校内研修を観察していればわかると思います。まとまりを作ろうとすれば形骸化し、個別性を優先すれば?マークが飛び回る。
 特に人間は腹の中では何を考えているかはわからない。取り組みに賛意を示しながら、別のことをやる教員が学校現場には溢れています。教育を語る言葉には独特の「聖」性があって、そこに沿った言説を語るのが教師としての正解とされています。
 しかし、その模範解答を口にする人間がほとんど信用できないことは経験的にわかります。この辺りに教育現場における共通認識の難しさがあるんだと思われます。

 だからこその「一人」なのです。もちろん孤立を指すのではありません。協働の基盤としての一人です。古臭い言葉で言えば個です。そういえば子どもの個は尊重されるのに教員の個が尊重されることはありませんねぇ。特給法なんかより重要な研究対象だと思うのですが・・・一体何のための研究機関なんだよ。

教育現場批判へのいささかの反論

 この一人を指して学級王国だと批判するのはどうぞご勝手に。
 また労働強化を指摘する人は、おそらく現場の労働強化の原因の一つにワークシェア的な発想があることに気づいていない。
 今、学校で労働時間を減らしていると喧伝している人の実践はどれを見てもある意味自分勝手に振る舞うことを良いように言っているだけです。
 ITやDXや人間関係の皮を被せて自分の都合だけで仕事をしていることを他人にご紹介することは私には恥ずかしすぎてできません。

 初任者や経験の少ない人間に一人を強要するのは流石にまずいと私も思います。 
 しかしそれは一人のロジックが悪いのではなく、日本の大学の教員養成システムが圧倒的にズレているのが悪いのであって人間性に問題のある大学教員から除いていけばよいだけの話です。学校教員のなかで大学教員だけがハラスメントやウソ・間違い学説が許される理由がわかりません。学校現場の授業で間違えたこと言おうもんなら親からも子どもからもボロクソですよ。
 初任者指導についてはだいぶ変える必要があると思いますが、それはまた別のところで。

学級集団の課題へのコミット

 やっとこさ本題。
 今、目の前の子どもを見て個々の課題も少しずつ見えてきましたが、そこはまだおぼろげです。
 それよりも集団的に気になったのが、話が聞けない。聞かなくても教室内にいて座っていれば怒られないというメッセージがもろに入り込んでしまっている。おそらくそういうメッセージをこれまでの担任から送られ続けていたのだろうと推測します。もちろん特別支援教育対象児童の存在もそこに一役買っているんではないかと思います。いや買ってるでしょう。しかしこれは誰が悪いという話ではない。これからどうするかということです。

集団内で一人の話を聞くこと

 聞けないにはいくつかの分類があって、聞く構えができてない。聞くとはどういうことかわかっていない。大事な部分がわかっていない。大事な部分が予測できない。話の筋がつなげられない。聞くときの自分の回路をコントロールできていない。結論から問いを作れない。問いを貯めておけない。などなどです。
 言い方はいろいろあります。とにかく聞かずにしゃべっちゃう子。聞いている姿勢だけど話の中身が理解できていない子。話を始めると手の行動が始まってしまう子。ガッコのせんせーならすぐにイメージできるはずです。

 これを担任が長話をするのが悪いみたいな言い方で解決しようとする横暴を最近はよく見ます。
 また聞くより話せる方が大事だみたい謳い文句もよく見かけます。
 一体どういう論理構成なのでしょう?

 話す、書く、話し合う、読む、聞くは日本の国語教育の基本領域だとはよく言われることですが、ここでいう聞くは技術的な提示であって日常生活で必要な聞くはもっと広い能力やマインドセットが必要になります。
 実は先にあげた「聞く」が否定される場合、この辺の定義は非常に曖昧で否定の都合やタイミングによって聞くの意味合いが変わるという無作法が許されています。つまり論理的には構成されていないんですね。
 
 しかし聞くはプログラミング思考で言っても、行動の出発点であり、思考の原点です。「ちゃんと」聞けてなくても良いからまず聞くというのは大切な準備です。聞くこと自体の結果の問題ではない。結果より方法・技術の取得その先の自己による確立の方がより重要です。

集団の聞く雰囲気=風習

 そしてやはりクラスルームにおいては雰囲気、今回は風習という表現方法にしてみますが、聞く風習のある学習集団づくりの発想が必要だと思います。
 クラスルームというのは一体的な動きがあるところにその存在意義があります。
 最近はこれを否定することに注力する人もいますし、私も一律に対して嫌悪感を示すことがあります。
 おそらくイメージの問題なのでしょうが、スタンダードや一体感、足並みなどの取り組みを一律という言葉で括ったとしても中身には大きな違いがあると考えます。

一体感のイメージ

私の語る一体感は
   一律からの離脱は可能かどうか。
   離脱するかどうかに対して教育的営みが介在可能か
   一律を守るためのルールに変更が可能か
   一律の参加者へのケア・承認や厭いはあるか
   一律による成長発達に子どもが実感を持てるか
   などの条件が必須の一律です。

 こうしたことを簡単にイメージの形にすると檻に囲まれた集団と自らスクラムを組む集団といった感じでしょうか?
 
 うわぁ今不意に昔、竹内常一さんが手を繋いだ棒人間が足を開いている絵と閉じている絵を並べて集団の良いイメージと悪いイメージを表していることに対して、本人の前でボロクソにこき下ろしたことを思い出した。竹内さんあの時の生意気なクソガキは今全くおんなじことをやらかしています。本当にごめんなさい。 

学習規律=学習効率

 とにかく我がクラスを話を聞くことができる集団に変えていかなければなりません。そう簡単な話ではないですが、そうしていくことが少なくとも学習効率を上げることにつながります。聞ければ主体的に何をすれば良いかわかるし、話す材料を考えることができます。

クラスの一律成立要件に構成員の基準はない

 それが学習集団として、どのような子どもが混ざっていようとも全く関係ないようにすることができるのは一人に人間による枠組み形成であることを教員として理解してほしいと思います。

授業改善とは自己の省察のこと

 私がクラスの子どもを聞く風習のある集団にできるのか否か?
 できるならどれぐらいの期間でできるのか?
 どのような方法が有効だったのか?
 どのような評価方法や深化方法があるのか?
 離脱する子どもが出るのか?などなど。

 全て結果論なので、なんとも言えませんが自分のウデを研究・分析の対象とするには一つ良い切り口かなと思っています。

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