授業づくりのつくりとは何か?

 授業のつくりかたをよく聞かれます。応えは好きにすればです。答えがあるもんではない。それに尽きることを語る人は少ない。これを前提にして話を進めることはいいことではない。そう思います。
 授業づくりをマニュアル化する現時点で最も有名なものはTOSSだと思う。
 いわゆる法則化運動という名称に添えば非常に高尚な思想に基づいているものと拝察するが、これが結果に直結しないのがゲンジツの難しいところ。
 別にTOSSに関わる人たちが悪いわけではないのですが、東大七博士が戦争利用されたり、教科書検定制度を正常化しようとして逆にナショナリズムの烙印を押されたりするという原因と結果の取り違えられというのは常に起こってきたわけです。

 ということは授業というのは、教師にとっては自分の(能力の差異も含めた)好みの問題もしくはクラスルームに合わせるかどうかというだけの話になってしまうということなんじゃないですか?
 つまり教師の側の能力と気分をどう表出するかというだけのことと同義。
 しかしこれは非常に複雑な組み合わせを持っていて例えば喋る能力の中の声質だけと話者の性格を組み合わせても千差万別の話し手が生まれてしまう。これが目の前の子どもとの組み合わせを考慮すれば大変複雑な経路での短期的な結果をもたらしてしまうことになる。
 こうした前提をもって授業がドラマだと言ったり、ダイナミズムの結晶と言ったりするのだが、どうもこの辺が素人には理解されにくいらしい。
 もちろん逆に長期的に見れば同じ内容を繰り返していけば最終的にはほぼ同じ学習結果の習得を期待できることも問題の所在をわかりにくくしている。学校いらない論者の論拠となる部分である。しかしいじめや崩壊、特別支援、PISA等の学力問題を総括的に含めた教育問題は短期であれ長期であれその時点で起こった課題に起因する性質を持っているのでどの部分の視点に対しても教職員側からリマインド(評価と言い換えても差し支えない)が必須になってくる。
 故に言い方は神授業でも模範授業でもなんとかサプリでもなんでも良いのだが、一つの完成形をオンデマンドで見せるということが教育としての完成形になることはありえないことになるのだが・・・。
 となるの授業「づくり」を構成するのは?

一つ、授業は内容

 内容は教材、つまり教科書そのもの。そこにかかれているものは文章、箇条書き、絵、写真、図、数式およそ関係なさそうなものまで全てが含まれます。
 教科書以外のものを使って進める場合はそれが内容になりますが、これやりすぎてしまうと奈良教育大学附属みたいと指摘される恐れがあります。
 そういう意味で言うと教科書というのは保険みたいなもんです。教科書検定を通っていることは内容保証ではないと思うのですが、とりあえず教科書さえ使っていれば安心です。
 このことは同時に教育内容を安直にしてしまう危険性を持っています。というのも小学校3.4年生の社会科は教科書を使いません。なぜならここの学習内容が住んでいる市町村を知ることにあるからです。一つ教科書で何千とある自治体の施設やその仕組みを網羅することは無理です。ですから教科書を使わずに自治体の用意した副読本を使うことになるのですが、これが否定的にとらえられた話を聞いたことがありません。
 教科書を使わないにも関わらずです。これと奈良教育大学附属との違いが良くわかりません。どんな屁理屈をくっつけようと本質的にやってることは変わりません。使わないものに予算立てしている時点で一般的な学校の方が罪深いと思うのですが。
 それましたがとにかく教科書を使っていれば内容がズレることはありません。少なくとも大きくは。

授業は目的

 目的は到達点。実際は教科書ガイド、指導書と呼ばれる教員用のアンチョコです。余計わかりにくいか。模範指導案を使って授業するための回答です。これはたぶん相当高額なので予算がとぼしければ買わない学校もあるようです。
 ほぼ全ての場合、これが教材の目標を設定する役割を担います。本来は教員が教材から自分で目の前の子どもにつけたい力(もちろん学力だけではない)を精査して目標設定をするのですが、最高裁判決で1つの授業の準備時間は労働時間のうち5分とするという見解が出されていますので法を順守する公立学校職員(皮肉です)としてはここでカンニング(清風高校に対する···)をして時短するしかありません。
 基本大変ベタな大衆ウケする味付けになっています。ここには単元の目標、指導計画、指導案、その他の資料などがあります。他に朱書きと言われる実際の教科書に教材のお役立ち情報を書き込んだものもあるのですが、間違いや正しくない情報も混ざっており信頼性は高くないです。これの作成者が学校教員だからです。自分の感想を吐き散らかして出世していく自称授業上手い人間です。この手の人間に本当に授業が上手い教師を見たことがないです。
 これらを使用せず、学習指導要領を解釈しながら目標設定をしたり、子どもの様子を見てイチから設計したりすることもあります。
 私は同学年の3、4クラスに同じ内容の授業をする場合、いわゆる専科、でも目標はビミョーに変えていました。クラスには色があり、特性を持っている個々がいるので、同じ内容でも授業の進度や理解の深度が異なってくることがしばしばあります。予測がつく場合は前もって目標自体をいじって授業の効果が最大化するように誘導していました。
 やり方としては、目的地を標準より近くしたり遠くしたりする設定をした上で近くした場合は経路を丁寧に指導したり、少し回り道をさせて技能獲得の手間を取らせたりするイメージです。

最後に方法

 調理方法に独自のエッセンスを加えると授業が個人のオリジナル化するわけです。クサく言えば人間性でしょうか?同じ内容で同じ目標を設定しても授業は全く違う様相を見せることがよくあります。まあ当たり前のことなんですが、一般人には理解されないし、大学教員でも無知な奴や実務家でも忘れてしまっている奴がいて閉口することがしばしばです。
 結局この方法によって授業が再構成されるといっても過言でないと私は考えています。
 しかしこの私の解釈する教育方法という言葉は一般的ではありません。日本教育方法学会というのがありますが、もはや教育のどの部分を担っているのかよくわからないくらい何でも屋学会になってしまっています。今はITCが流行りなのでそこに力がいっているようですが(2000年前後が今よりもその状況がひどかった。今はスピンアウトして分裂しているので状況的にはまだマシ)この学会がまきちらす教育方法は教育現場になにも貢献しない不思議な存在です。そもそも日本教育学会にしたって、その他の教育に関わる学会もご同様です。
 指導書を使っているとこの方法の部分にコミットすることはありません。教科書制作会社は教員の人となりを知らないからです。だからレールを外れないように指導案が設計されています。またレールに沿うことに注力することが善と教え込まれている初任者指導の現状もあります。よって教員はとにかく指導案の流れから見て余計なことが教員自身も子どもからも出ないように心がけています。研究授業をしていると「軌道修正」という言葉が出ることがあるのはそのせいです。
 教育方法を教師が個人的に握っている場合、大枠目標にさえ沿って入れば軌道は修正する必要はないはずです。軌道に沿ってゴール地点を変更すればいいからです。しかし指導書に方法を握られている場合はそうはいきません。少しのズレがゴール地点への到着の障害になってしまいます。
 結局、方法というのは、教員の工夫であり、教員の情熱であり、教員のスキであり、教員の人間性であり、教員の授業観であり、教員の願いであり、教員からの子どもへのギフトであり、教員の人間性そのものです。
 普通教員は授業にイロをつけることを嫌います。しかし私が授業すれば、国語でも算数でも音楽でも家庭科でも体育でも同じイロになってしまいます。内容も目的もバラバラなのにです。これがいわゆるレギュレーションなのだと思います。ルールでもルーティンでもないけれど私のクラスルームに厳然と存在する学校への引力のようなものです。
 個人的には授業を見る時、この方法の部分を非常に重視します。というかここしか見てません。これが子どもとマッチしているクラスには自然と学習規律が生まれています。中学高校で学習規律が即成立するのは子どもが教員に合わせることができるからです。

ハラに落ちている授業

 この3つの要素と目の前の子どもが理解できていれば、授業中にどんなハプニングが起こっても瞬時に対応することができます。
 サッカー選手がボールを持った瞬間、パスコースが5種類見えて一番難しいものを選択する時間的余裕があった逸話やお笑い芸人がフリートークで瞬時にツッコミが5つぐらい浮かんだ話、落語家の話す情景が観客全員に可視化される体験などと通底します。
 これを指してハラに落ちている授業というのですが、これは一度やっただけではなかなか辿り着けない境地です。ただ黒閃と一緒でやったことある人間とそうでない人間では教師としての格がずいぶん違います。
 一つハラにおちる授業があれば、そのイメージ(あくまでもイメージ、小手先の技や引き出しを使い回してもすごいことが起こらないのはTOSSやマニュアル本が実証してくれています。だから0か100なんです。)を他の授業に援用できて次のハラに落ちる授業を生み出してくれます。
 これがウデのある教師への愚直な道だと思うのですが、方法の部分にコミットすることが嫌われる授業研究の状況と多方面の無理解がこのこと自体の障害になっている現状です。
 多分こうした授業観に多様性が認められることがやりがい搾取からの脱却であるし、教員が専門的職業として認めれることなのだと思います。
 決してカネの話ではない。簡単で実入りのいい仕事をやりたい人ばかりではないからです。特に教師が頭に浮かぶ人はそうだと思います。 

 そうした人のために今はウデのある教師への理解と居場所の確保に努めておこうと思っている今日この頃。

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