特別支援教育の現在地 理念と実践の関係において

「頑張ってる人(子ども)に悪いからさ」を脱却する

 私が批判する現場にいる評論家の立ち位置に立ってみることも重要かなと考えてみる。というか公立学校の教師にとってどの場面でもバランス感覚を発揮することと同時にバランス感覚を保とうとする努力が存在することが大切なのだと思う。どんな教育実践にも良い悪いの両側面がいくつものモノサシとして存在している前提を踏まえて語り合っていくことがお互いの知識を増やし、理解を深め、ものの見方を豊かにしていくのだろうと考えます。

 というわけで、文科省、知識人が言ってることが善でも悪でもないという前提で、しがらみを抜きにして特別支援教育について考えてみようと思います。
 東京大学の星加先生が言うようなインクルーシブとダイバーシティの発想を深めていくことが社会を形成する上で重要であることはよくわかる。包括的かつ多様的な社会参加の実現はそもそも社会基盤を維持継続していけそうなことは現状の分断社会が奇しくも証明にしているようにも見えるからです。そんな社会実現のためにインクルーシブとダイバーシティの考え方が教育現場に持ち込まれることもある種納得できます。

現状の学校教育の枠組みと特別支援教育が起こす齟齬

 しかしです。福祉が教育現場に侵食することで及ぼす影響のように、実際には既存の枠組みとの衝突により片方がもう片方の存続のために善意で形骸化するというのは、よくある話だと思います。そうしなければお互いが主張し合うことによって悪影響を及ぼし合ってしまうからです。しかし、対立状況を残してお互いに悪影響を及ぼし続ける場合があるのも事実です。特別支援教育は実際問題、齟齬を起こしている可能性があると思っています。
 教育現場ではさまざまな勢力が光の面ばかりを強調して持ち込んできては、うまくいかないとなかったことにしていった事例に溢れています。古くは自由研究から始まり、有名どころではゆとり教育、全く存在しなかったことになっているチームティーチング、そして残ってはいるものの学習としてはあまり機能していない小学校生活科や総合的な学習の時間(何度か名前が変わっているのですが、もう名前の意味からしてよくわかりません。)があります。これらは導入時は学校教育を一変させるとそれはもううるさいぐらい喧伝されたものです。私はここに小学校外国語も加わるのではないかとかなり確信に近いものを持っています。
 ついでに言えば、今現場は令和の日本型学校教育というスローガンのもとにさまざまな取り組みがおそらく保護者には全く伝わらない形で(もしかすると感度の鈍い教員も知らないのかも)持ち込まれています。これらの中にもなかったことにされていくものが多数混在しているのだろうと思います。

齟齬の理由

 なぜこのようなことが起こるのか?どんなに立派な理念や理論を並べ立てたところで広がりがなければなんの意味もないという単純な話です。じゃあ宣伝を打ったり、強制的に広げていったりすればいいのか?そういったことでは確実性につながらないのが高度情報化社会(久しぶりに言った気がするなあ)の良い面でも悪い面でもあるわけでしょう。本当にいいものを作れば時間がかかったとしても確実に売れることと似ているのですが、マネパやタイパやインフルエンサー、YouTuber、教育子育てマニュアル本のような即時性だけを追求した全く本質的ではない価値ではなく、職人気質の一点もの、頑固親父のこだわり(我ながら古いなあ)、情熱溢れる文学的教育観のような利用価値を生み出せるかいうことなんだと思います。
 これは斉藤幸平さんのいうような減速性を伴う実践です。知識人が求める加速的なマニュアル的な耳障りの良い実践ではありません。特別支援教育も知識人に任せたままでは、加速的な面ばかり強調され齟齬を起こして広がりを保てない状況を続けていく可能性があります。

誤読・未読による伝言ゲール

 もう一つ指摘しておくと現場では実践において何をすれば良いかがよくわからない場合マネぶとか人に聞くとかになりがちです。というほぼ100%そうなります。それ自体は悪くない。しかし問題はその相手は未読や誤読を起こしていないかということです。伝言ゲームの場合はズレて面白いねで済むのですが、実践の場合はそういかない状況の方が多く取り返しのつかないことになってしまいます。そしてそれ以外に教育という営みにおいて最も多いのが「仏つくって魂入れず」なんです。指導案など形は全く同じ教育実践です。しかし情熱も感情も相互理解も全くないその場限りの関係性では意味が薄いんですよね。1回限りの関係で公開授業する有名教師を山ほど見ました。古くは大村はまさんとかですね。子どもにとって何の獲得もない時間で、正直見ていて痛々しいものばかりです。企画した人間が悪いので登壇した教師は悪くないと思うのですが、なんで断らなかったんだろうと不思議に思います。
 特別支援教育の実践がこうしたものと同様に未読と誤読そして形だけの伝言ゲームに陥っている様をよく見かけるような気がします。

 これらのことを前提として、さまざまな角度から特別支援教育の関係性を論じてみようと思います。続きます。

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