思考の原理

マネタイズを求めず、タイパを考えず、流動的な立場での思考を言語化して対話に繋げるを目指…

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マネタイズを求めず、タイパを考えず、流動的な立場での思考を言語化して対話に繋げるを目指した『子どもにまつわるエトセトラ』

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閑話休題 授業改善 授業改善うるさいよ

 その前に自分らの仕事をカイゼンしてくれよ。それからいうてくれ。  これって交通違反者が周りも違反しているやんけって言うのと一緒なんですか?  と文科省と教育委員会に直接言いたい今日この頃。みなさんいかがお過ごしですか?  いくつか言いたいことはあるので先に絞っときます。  今現場は授業改善をしろしろ言われまくっています。とにかくなんでもいいから授業改善。そんな感じです。笑えるのが絶対改悪でしょと思う実践報告を賞賛している指導主事がいたことです。しかもおそらく高校教員あがり

    • 教育における主体性の正体 #2 どうしても主体性を評価したいなら・・・

      主体性の新しい評価方法  さて、個人の主体性をどうしても定量的に評価するというなら(それはどう足掻いても主観的な評価にしかなりえないと思うのだが)、時間からのアプローチの仕方が主体性を測る指標になると思う。    ある同一作業時間にかかった時間を単純に比較する。それだけではこれまで通りなので、さらにその個人の基底である能力や感覚を測定してどれだけ無理してその作業に没頭したかを測る指標を用意することになる。  少し荒っぽい言い方をすれば、その個人にとっての能力と時間感覚との差

      • 遊びでつながる友だち関係

         大人は子どもの友だち関係を心配しがちです。  特に新学期には顕著になります。  おそらくそこは保護者が介入すべきところではない。  そして大人が集団からの離脱の自由を承認するというルールがなければより子どもを苦しめることになるだろうということです。  集団でいることを善とする発想の被害者が不登校やトイレで弁当な人たちであることはよく言われるがこれは今に始まったことではない。教員になった当初から私は「別に自分がそれで良いなら1人でも良いんだよ」と子どもに伝えていました。子ども

        • 指導のシチュエーションを忌避する教員 後編

          体罰や不適切指導への経路  体罰教員がやらかすのは目標設定にムリがある場合であることは先に述べたとおりです。  問題はその理由です。学校文化、同僚性に起因すること、つまり内輪の事情によるものと管理職、教育委員会、文科省といった外部事情によるものの2つが教員の内面を突き動かしたことによると思われます。  どちらも内輪の事情に思われがちですが、この二つは根本的に射程が違います。  すごく単純に言えば、内面への作用方法に違いが出るといえば良いのでしょうか?昨日、東京都の1年以内の

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        • 特別支援教育
          9本

        記事

          指導のシチュエーションを忌避する教員 前編になってもた

           単純に今書いている主体性の話の論理構成が行き詰まってます。主体性を教育に評価するものとして持ち込むことがいかに困難か?もし文科省なり教育委員会なりが「できてるよ。」と言ってしまったなら私は笑ってしまうと思います。よって別の話題で時間ができるまでしのぎます。ということで、  指導が良い悪いかということは、教育現場においては昔から議論されてきた。  というか指導とはどういうことを指すのか?ということについて統一的な見解ができた、いわゆる定義化されているという話を過分にして聞い

          指導のシチュエーションを忌避する教員 前編になってもた

          閑話休題 好きな食べ物はなんですか?

           はい、みなさんなんでもいいので、先生への質問を書いてみましょう。  この問い方をする教員へのいちゃもんを聞いたことがあります。そんなマニュアル本があるから、教員の成り手がいなくなるんでしょ。書くことなくなったからといってどーでもいいことにまで噛みつくなよ、みっともない。  基本年度当初、教員はいろいろやります。正解はありません。黄金の三週間はこういう正解をやって学習集団をつくりましょうみたいなクソみたいな本がありますが、詐欺です。  きちんといろいろ試して観察して多面的に

          閑話休題 好きな食べ物はなんですか?

          教育における主体性の正体 #1

           教育における主体性とは何か?というのはおそらく唯一教育学とりわけ教育哲学でのアプローチしかないのではないだろうか。  というのも主体性を見るとき主体そのものを何が起因させるかが実は困難なのだということに気づいている人がそんなに多くないのではないかと思っているからである。 心はどこにあるのか  よく言われるのは心はどこにあるのかという問いである。  全く同じ視点から見ても一体主体性は何に起因しているのかということは、問えると思う。  この問いに応えたものは数多くあると思う

          教育における主体性の正体 #1

          公立学校教員のゲンジツを大学教員ではなく、大学生が正しく理解している現実

           あまり特給法の話をしたくないのだが、流石に名古屋大学の内田良くんのコメントを見ていると萎えてくる。  教員辞めようかなと思う。  以下引用 「保護者からの要望と『子どものために』という教育論があるため、なかなか業務が減らない」と分析。  これはダメなことかい?というか今の保護者の中には教員に対して遠慮や労いを持って接してくださる方も結構いらっしゃるのだが・・・数で言えばモンペより協力的な保護者の方が圧倒的に多い。  そして日教組から距離を置いて「子どものためを」考え直そ

          公立学校教員のゲンジツを大学教員ではなく、大学生が正しく理解している現実

          クラス経営でモラルを評価して任せる仕事の重要度割り当てや問題行動への対応に活かすこと

           評価キジュンについてはいつでも困難が伴っている。  何年やっても現場でむずかしいなあと思っていること。  大学教員の言葉あそびにつきあわなければならないのは大変疲れる。多分悪気なく遊んでおられるのだろうけれども、すげえ迷惑です。  ロジカルなつもりなんでしょうけど、つくられたルーブリックなどの方法や三観点などの評価の観点はとてもじゃないが現場での保護者のいちゃもんに耐えられる代物ではありません。なんで論理破綻した代物について現場が文句を言われなきゃイカンのでしょう。  

          クラス経営でモラルを評価して任せる仕事の重要度割り当てや問題行動への対応に活かすこと

          授業づくりのつくりとは何か?

           授業のつくりかたをよく聞かれます。応えは好きにすればです。答えがあるもんではない。それに尽きることを語る人は少ない。これを前提にして話を進めることはいいことではない。そう思います。  授業づくりをマニュアル化する現時点で最も有名なものはTOSSだと思う。  いわゆる法則化運動という名称に添えば非常に高尚な思想に基づいているものと拝察するが、これが結果に直結しないのがゲンジツの難しいところ。  別にTOSSに関わる人たちが悪いわけではないのですが、東大七博士が戦争利用されたり

          授業づくりのつくりとは何か?

          ポストを用意すれば問題解決なの?主幹教諭の下の話

          労いがない仕事  教育現場が「いとい」も「ねぎらい」もない仕事になってしまったことは常に言っている。  カネの問題ではない。教員という仕事自体がハラスメントと収奪の温床になっていることを改善しなければ何をしても教育は良くならない。  どんな立派な学習指導要領をつくっても実行するのは教員なのである。どんな立派な機械を用意しても人間はそこから効率的に学ぶことはできない。  子どもはそもそも学ぶこと自体できない。単純に言っても知識と技能は別物だからである。実際はもっと複雑なのだが

          ポストを用意すれば問題解決なの?主幹教諭の下の話

          結局、学びの多様化学校とは何なのか?

           この四月からまさしく雨後の筍のように学びの多様化学校が湧いている。所詮不登校学校である。学校の良さをなくした学校に過ぎない。これならまだN校のほうが潔い。ビジネスの視点から独自性があるからである。こうしたパブリックな疑似ビジネスが全て失敗するのは公務員にビジネスは下賎なものという発想があるからである。なにも産み出さない行政のほうが遥かに下賎であるにも関わらず。 不登校特例校という学校  すでに名前の中にいくつかの矛盾を内包していて突っ込みどころ満載です。でも紅麹で再度証

          結局、学びの多様化学校とは何なのか?

          プラットフォーマーとしての行政の援護射撃

           いつになったら二分の一成人式が良いか悪いか的な話が終わるのだろう?  どっちでも良いじゃん?そもそも話題にのぼらせること自体が二分の一成人式の存在価値を周知してしまうんじゃないのと思ってしまう。  これは成人式にしたって同じこと。そろそろ一律のイニシエーションから脱却した方がよくないかな?    問題は定式的な一律。タダのカタチであり、抜け殻。他人と一緒が安心材料であること自体がそもそもおかしい。それより社会的意義や自分のありようを考える方がどの方向にとっても有益。そして

          プラットフォーマーとしての行政の援護射撃

          鎌倉市の取り組みをただただ批判する

           実際には新進気鋭の教育長が新しいサポート策を多数工夫したり、新任からバリバリ新しい取り組みをして4、5年で教育委員会に行ったりするという周りから見れば羨ましい限りなのですが、そこをただただ批判してみます。  はっきり断っておきます。羨ましいし、実は私もこういう教員人生を送っていくハズだったなぁと思っていました。設計図として。でも全くできなかった。その後悔を言語化するという意味で批判してみます。自分でもわかっています。的外れだと・・・ 教育長の取り組み  文科省のキャリア

          鎌倉市の取り組みをただただ批判する

          いじめ防止対策推進法の機能不全

           というより長崎の海星高校の問題だと考える。  このニュースを見ると、もう正直高等学校の存在理由がわからない。  高校野球をするための組織なのかなぁとも思う。  大学の予備校であるならいっそ廃止したほうが清々しい。  公立高校が存在する害悪は実はさまざまな場面でいろんな方面に迷惑を撒き散らしている。  費用的なメリットをいう人間がいるが、これは早晩授業料無償化と今起こっている通信制高校の授業料のディスカウントによって無力化することは目に見えている。  義務教育じゃないだから良

          いじめ防止対策推進法の機能不全

          「聞く」風習がないクラスルーム

          クラス始まりのワクワク感  さて新学期も一週間ほど終わりました。  私は「黄金のなんちゃら」を重視しません。  これは教員の好みの問題で、好きにすれば良いです。中学校の場合は、一度緩めればそれでオワってしまうと思っている程度の教員の集まりなので非常にそこを重視します。最初の決め事で「縛り」を作ってがんじがらめにするんですね。生徒指導上も部活動の指導でも非常に都合が良い。生徒指導概念と部活動は日本独自の悪習です。  私の場合はどこかで締め直せば良いと考えているし、締め直せる方

          「聞く」風習がないクラスルーム