戦国武将・秀吉の腹心【蜂須賀小六】
大永六年(1526)に尾張で誕生。大永生まれの主な戦国武将は武田信玄、六角承禎、陶晴賢、柴田勝家、滝川一益、森可成、三好長慶らが同世代。信長、秀吉、家康より少し上の世代。
秀吉の与力として創業から仕え、秀長、竹中半兵衛、仙谷久秀らとともに秀吉の出世を支えた初期からの腹心。
天正五年(1577)から始まる中国攻めでは、小六は息子の家政と共に従軍。播磨を平定すると秀吉は姫路城を本拠とし、小六は龍野城五万石の城主となった。
中国攻めでは官兵衛と小六の二者が調略や外交を担当し、中国大返しで毛利と停戦後の関係構築でも安国寺恵瓊と交渉を重ね大任を果たしている。
秀吉が柴田勝家や徳川家康と覇権争いの連戦中に、小六は毛利との外交のため、軍事を小六の与力となった赤松広秀に委任。
長島城で籠城を続けていた滝川一益のもとに派遣され、名代として一益の投降を受け入れて滝川領の織田信勝への受け渡しを統括した。
天正十三年(1585)に秀吉が内大臣を受けた機に、小六も朝廷より従四位下の官位を賜り、修理大夫に叙任された。
四国攻めでは、小六は目付として出征。息子の家政と官兵衛ら播磨勢は宇喜多秀家を将とする備前勢と合流して讃岐を制圧。
総大将の秀長と共に一宮城を包囲すると、小六は小早川隆景、吉川元長ら毛利の援軍との連携に伊予へ向かう。その間に長宗我部元親の降伏が成立した。
論功行賞で小六は大坂で秀吉の側近として仕えることを望んだため、阿波十七万三千石は小六の息子の家政に与えられ石高は加増されて転封となった。播磨の龍野城は福島正則へ与えられた。
従四位下修理大夫の肩書を賜り、秀吉の天下取りの要となる中国の毛利、四国の長宗我部を降伏させ、息子の家政を国持大名へと出世させた小六は天正十四年(1586)に六十一歳で死去。
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