「ひとり」でも大丈夫だと確信したあの日。
料理家・山脇りこさんの『50歳からのごきげんひとり旅』を読みながら、これまでの旅を思い出した。
「ひとり旅」というのを、したことがない。
学生時代は、色んな場所をおとずれたが、いつも親しい友人といっしょだった。
その頃は、べつに「ひとり旅」をしたいとは思っていなかった。
親しい友人と、わいわい道中を散策し、ときめくお店に入り、あれこれとお土産を漁り、観光地で変なポーズの写真を撮る。
それが、学生時代のわたしの「旅」だった。
けれども、さまざまな県をおとずれ、海外にも赴き、写真も大量にあるのに、「旅先の記憶」がないことに気がついた。
それもそのはずで。
友人との旅行では、いつも彼女らとの会話が思い出の中心になっていた。
観光地をおとずれても、その場所の景色を目に焼き付けるよりも、ポーズを決める友人の写真を撮った。
その地ならではの食材を使ったレストランでも、目の前の料理の味より、それを頬張る友人に笑った。
趣きのある旅館でも、友人との会話ばかりが思い出され、そのときどんな温泉に入り、どんな料理を食べたのか思い出せない。
わたしは、いっしょにいた友人や自分ばかりに気を取られ、「旅先」をぜんぜん見ていなかった。
だから、「旅先の記憶」がない。
写真には残っていても、頭にも心にも、残っていないのだ。
学生時代は、そんな旅でも満足だったが、だんだんと心境が変わってきた。
「ひとり」になりたくなってきたのだ。
例えば、歩く速度が違うとか、ひとりで寄りたいお店があるとか、この景色を心ゆくまで眺めたいとか。
そんなささいなことがきっかけで、「ああ、今ひとりだったらなあ」という考えがわくようになった。
実際に、「ひとり」になろうとしたこともある。
友人たちと熱海に旅行した際、わたしはどうしても「來宮神社」をおとずれたかった。
でも友人たちは別の場所に行きたがっていたので、「じゃああとで合流ね」と提案した。
しかし、「せっかく一緒に来たんだから、全部一緒に行こうよ」という友人に却下され、結局限られた時間に、全員の行きたい場所をまわることになった。
「來宮神社」は、漂う神聖な空気とおしゃれなカフェがとても魅力的な場所だった。
ゆっくり味わいつくしたかったが、これもまた友達との旅行の醍醐味だと納得し、あきらめた。
この熱海の旅は29歳。
思えばこのあたりから、本格的に「ひとり」を求めていたような気がする。
娯楽目的の「ひとり旅」はしたことがないが、旅のなかで「ひとり」になれた瞬間は何度かある。
「ひとり」で過ごした時間のことは、今でも鮮明に思い出せる。
ひとりで、熊本県をおとずれたことがある。
何かの試験があり、その前乗りのためだった。
なるべく安く済ませようと、鈍行でゆっくり熊本市に向かった。
人気のない電車で、じっと本を読んで過ごした。
時折、だれかが自分を見ているのではないかと不安になり、顔をあげたが誰もいなかった。
そうか。わたしは今、ひとりだったな。
そう思うと、無性に人恋しくなり、不安になり、それでもやっぱり「ひとり」でいる心地よさも感じながら、何時間も電車に揺られた。
翌日が試験だったので、着いてからはしばらく、熊本の町をひとりで歩いた。
堂々と歩いているつもりだったが、「誰にどう見られているか」を何度も気にして首がすくんだ。
本当は、熊本城でもおとずれ、観光地ならではの料理でも食べたいと思っていたが、当時のわたしにはそんな勇気がなく。
人目を避けながら無駄にウロウロし、結局マクドナルドでチキンフィレオセットを買って、部屋のテーブルでもそもそと食べた。
ひとり旅って、ずっと無言だな。
無音が気になって眠れなくなったので、音楽をかけながら、夜を過ごした。
翌朝、部屋に備え付けられたドライヤーで髪を整えた。
壁に固定されたところから、わずか数センチしかコードが伸びないドライヤーに「どうやって乾かすねん」と一人で突っ込みを入れた。
もちろんだれも、返事をくれない。
壁際に立ち、短いコードを目一杯引っ張って、アメニティの櫛で髪をとかしていると、とつぜん櫛がバキンと音を立てて折れた。
備え付けシャンプーが合わずにきしきしになっていた髪の毛。
そこに、折れた先の櫛が刺さったままになっているのを鏡で見たとたん、わたしは吹き出した。
「ひとり」なのに、笑いが止まらなかった。
涙が出た。腹筋も痛かった。
「なんなんマジでwwwww」と「ひとり」で笑いながら、櫛をひっこ抜いた。
こんなん、友達おったら絶対爆笑やん。
帰ったら話すネタができたな。
そう思ったとき、なぜかこれからもわたしは「ひとり旅ができる」と確信した。
試験当日に、こんなとんでもないことが起きても、「ひとり」で笑っていられる。
それを帰って話せる友人がいる。
だったら、「ひとり」でも大丈夫だ。
そう思ってからは、不思議と来た時よりも堂々と街を歩けるようになった。
「強くなった」、そう感じた。
こんなことを繰り返しているうちに、「ひとり」で電車に乗るのも、「ひとり」で飲食店に入るのも、どんどん平気になっていった。
みんなそうなんだと思っていたけど、妹などはいまだに「ひとり」でカフェすら入るのが億劫だと言っていた。
山脇りこさんも書いておられたけど、やっぱり「ひとり」には一定のハードルがあるのだろうと思う。
だからこそ、「ひとり」でできたことは、記憶に残っている。
「ひとり」だから、自分の目で見て、頭で考えて、心が動いたときのことをじっくり見つめることができる。
「ひとり」だから、恥ずかしかろうと一人でお店に入らなきゃならないし、こわかろうと、自分で何とかするしかない。
「ひとり」だから、自信がつくのだ。
だれかとの旅は、楽しいけど人任せ。
わたしにとって、夫との旅は心地いい。
母や妹との旅は気兼ねない。
子どもたちを連れていく旅は、かけがえのないものに違いない。
でもいつか、必ず「ひとり旅」をしたい。
そのときはきっと、この本のことを思い出す。
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