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「書きたいこと」に、おぼれています。


「書きたいこと」が多すぎて、おぼれている。

仕上げる前に、次の記事を書こうとしてしまって、なかなか記事を完成させられない。

考えがまとまらない。
寝不足もある。
GW疲れも、五月病のせいかも。


あれも書きたい、これも書きたい。
そんな「思いつき」ばかりが、浮かんでくる。

しかし、そんな「思いつき」の断片をつなげるだけでは、ひとが読める記事にはならない。
そこから、論理的な筋書きを考えているうちに、次の「書きたい」の波がおそってくる。

手を動かして書いているのに、頭ではべつの記事のことを考えている。
目の前では推敲をしているのに、頭では構成を組み立てている。

だから、書き上げられない。
下書きばかり、溜まる。 

じぶんの「思考」に、おぼれているみたいだ。


よい本や文章に出会うと、刺激をもらえる。
でも、学んだことをいかそうとするあまり、記事が書けなくなるときがある。

今回の場合、古賀史健さんの『取材・執筆・推敲 書く人の教科書』を読んだあとから、書けない大波に揺られ始めた。


分厚さにドン引いて、ずっと押し入れにしまい込んでいた一冊だった。
でも、先日読んだ『20歳の自分に受けさせたい文章講義』があまりにおもしろかったので、それならこっちはもっとおもしろいはずだと、肩を弾ませ、押し入れをさぐった。


あっという間に、読み切った。
もうどこもかしこも、付箋だらけだ。
考えたいことも、書きたいことも、頭の中に山積みになった。

「ライター」という仕事、「書く」ということ、そのすべてにまつわることが書いてあった。
何度も、うなずきながら読んだ。
読後は「書きたい」欲がおさまらなかった。

でも、書き上げられない日々が続いている。


膨大なことをいちどに摂取したせいか、考えがぜんぜんまとまらない。
本の紹介記事も書きかけたが、うまくいかない。
いったん「書く」から離れて、日常や子どもたちのことを書いてみるも、しっくりこない。

あれ?
なにが書きたいんだ、わたしは。


やむを得ず、今度はいったん書くのすらやめる。
毛色のちがう本で気分を変えようと、燃え殻さんの『すべて忘れてしまうから』を読みふける。


そしたら、これはこれでじっくりと味わってしまって、自分の文章が浮かんでこなくなった。

良質な文章を浴びると、「ああこんなの、自分には書けない」と途方に暮れるときがある。

どうしよう、どうしよう。

書きたい意欲だけは、いつもよりあるのに。
書き上げる忍耐が、見当たらない。

こんなとき。
つべこべ言わず、地道に手を動かすしかないんどろうか。



ただ、やみくもに手を動かすまえに、やるべきことがある。

「捨てる」ことだ。

「書きたいこと」を、いさぎよく捨てるのだ。
全部じゃない、でもほぼ捨てる。


せっかく思いついたから、ぜんぶ書きたい!
そうやって欲張りになってしまうけど。

無理なのだ。
だって、時間は有限なんだから。

「書きたいこと」を、すべて「形」にすることはできない。
それならもう、ひとつ選んで、あとは捨てるしかない。あたりまえだろ。

古賀さんも、「迷ったら捨てる」を掲げていた。
それは、「推敲」における文字や文章を「捨てる」の意だが、今回の「書きたいことがいっぱいある」状態にたいしても同じだろう。

もちろん、「せっかく書いたのに、もったいない」と思うだろう。
(中略)
しかし、推敲に「もったいない」は禁句である。読者はあなたの「苦労」を読むのではない。(中略)そこに投じられた時間や労力に関係なく、読者はただ「おもしろいコンテンツ」が読みたいのだ。こんなにがんばったとか、こんなに苦労したとか、これだけ時間をかけたとか、そんな書き手側の事情はどうでもいいのである。

同書、p.423


たくさん思いついた「書きたいこと」。
ひらめいたときは、気持ちが高まる。

しかし、そんな「思いつき」なんて、いくらでもわいてくる。

「思いつき」を、どう記事として書き上げるか。
それを考えるほうが、ずっとおもしろいし、「書く」の醍醐味が詰まっている。

それに、古賀さんの考えを借りれば、わたしがどんなに「これおもしろいぞ~」と考えたことでも、読み手にとっては「つまらない」かもしれないのだ。

だから、「思いつき」ひとつに、固執しない。
ぜんぶ書くことに、こだわらない。

たくさん思いついて、書いてみては消して、下書きを大量に生み出しながら、最後にはひとつ「書き上げれば」いいのだから。




何とか、着地点を見つけた。
ゴールできて、すこし安堵する。

書き上げるのは、ほんとうに難しい。
自分の頭の中だけに、存在させるのは簡単だ。
でも、なにかしらの「形」にするというのは、時間と労力が必要になる。
だから、めんどうで、おもしろい。


これからもわたしは、「思いつき」の波に飲まれるのだろう。

そこから、ああでもない、こうでもないと、不器用に泳ぎながら、なにかひとつ、「形」をつくれたらいいんだけど。

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