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やりたいことの見つけ方 「現実見ろ」ってそれ自分に言ってます?

「現実を見ろ」と言われたことはありますか?

私はそのフレーズをこの人生で何度か聞いたことがある。

それに疑問を持ち続けているせいか、その言葉が脳にこびりついている。

短大を辞めて浪人をするときに親に言われた
「現実見て短大に行って卒業しなさい」。

就活支援の人が言ってた
「僕は現実を見るために夢をあきらめましたけどね」。

その人たちが言う「現実」って何を指すのだろう。

生活をしていくこと?勉強すること?会社に就職すること?

子供のころは何を夢見たって、「現実見ろ」なんていう人はいない。

逆に、「将来の夢は何かな?」とニコニコしながら聞くのだ。

そこで何を言おうが許されていたが、それが大人になり夢を語ると怪訝な目で見られるのはなぜだろう。

自分がこれだけ頑張っているんだからお前も頑張れよと、同じ努力を強要させるかのように。

一方、「まともな夢」は大人になっても許される。

ここで言う「まともな夢」は、求人として出ているような既存の職種を指す。

「まともな夢」は「現実を見ている」と評価され、誰かが口を出したりはしない。

人の役に立っているからだろうか。社会に貢献しているからだろうか。

それはそうなら、幼い頃に将来の夢を考えさる時間は無駄だったのでは?

普通に生きるためには普通に稼がないといけないと言わんばかりに、食っていくための資金集めに就職を勧める。

幼い頃の夢は女優とかサッカー選手とか夢があったのに、
それは高校卒業辺りでほとんどの人が夢を諦めるだろう。

これを書いている本人である私もそうだ。ピアニストになりたいと語っていた頃が懐かしい。

それが中学生あたりになって分かるのだ。自分より上がいるということに。

これが私にとっての「現実」だった。

別にピアノ好きなわけじゃないしな。楽譜読むのめんどくさいし。

そう思って諦めた。諦めたというより、そもそもピアニストというジャンルが自分の性格には合ってなかったのかもしれない。

次に夢を見つけることなんて、すっかり現実を見る段階までに成長した私には難しいことだった。

やりたいことを探すよりも、なんだかかんだ続けてこれたものが、気づいたらやりたいことに変わっていたことの方がいいのではないだろうか。

「ほら あなたにとって大事な人ほどすぐそばにいるよ」
っていう歌詞もあるし。

意気込んで探そうとすると、合わなかった瞬間に辞めたくなるだろう。

それはやりたいことを探すにあたって本質的に矛盾している気がする。

現実を見ろなんて言う人ほど、実は現実を見ていないんじゃないかと感じる。

自分のやりたいことを探すことも、やりたいことを叶えるまで続けることもしてこなかったから、生活の方の「現実」にしがみついているように感じるから。

夢が現実に変わったとき、「現実を見ろ」という人は何をもって現実を指すのだろうか。

現実を見て、上には上がいることを知りながらも、それでもやり続けたい分野かどうかというところに、自分のやりたいことがあると思う。

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