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誰かのために生きるか何かのために生きるか


誰かのために生きたいと思ったことはあるだろうか。

お母さんが悲しむから、家族のために、恋人のために。

私は、誰かのために生きたいと思ったことがなかった。自分の夢ややりたいことのために生きている思いの方が強い。

他人に対して自分の生命価値を見出していないというか、何のために生きるかなんてこともあまり考えていない。

でもぼーっと生きているかと言ったらそうではない。授業中に何度も「田村!聞いてるのか!」と注意された私でも、色んなことを考えて生きている。

毎日文章についての知識をつけたり、文章を書いたりしているが、それが収入に繋がっているかと言ったら違う。

いつかのために備えて、積み重ねている。でも、お金を稼げていないことは、私にとって自信がなくなることだった。

周りは毎日8時間も出勤しているのに、自分がやりたいことばかりしていていいのだろうか。誰にも言われていない声が聞こえてくる。

こんなとき、誰かのために生きていたら、そんなことを気にせずに生きられるのだろうか。

そんなことを考えて自転車で家に帰っていた。家につくまでの道には川がある。川と言えるのかは分からないが、濁った汚い川がある。

その川沿いを自転車で走っていると、猫の写真とともに3つの花が添えられていた。

その川はいつも緑色の雑草ばかりなので、色鮮やかなその花たちが妙に目立った。

自転車を止めてよく見ると、「猫が亡くなりました。長い間愛してくれてありがとうございました。」と書いていた。

猫が喋るはずがないから、おそらくその猫の飼い主か猫とよく遊んでいた人が書いたのだろう。

誰かの人のために生きている人だ、と思った。

そして、花を供えた人達もまた、その猫のために生きている人なのかもしれない。

いいなあ。すごくいいなあ。

その人たちは、猫が亡くなった後もその子のために生きられるのかもしれない。

「この子の分まで生きないと」「この子のことをたくさん思い出せるように生きる」のように、悲しみが強さに変わるのだろうか。

去年の夏にばあちゃんが亡くなった。今でもそのときのことを思い出しては涙が出るし、まだ悲しみが強さに変わっていない。

誰かを亡くした悲しみが自分の中になじんだときに、自分の中で生きていると感じられるのだろう。

誰かのために生きるとは、その人が心の中にいて、一緒に生きているということなのかもしれないな。


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