「わがまま」ってずるい言葉だ
みんな自信なんてないのに、真面目じゃないのに、本当の自分を隠そうとする。
授業中、一生懸命相槌を打って熱心に聞いていたあの子も、家では「あいつの授業つまんねえんだよ。」と愚痴を吐いているかもしれない。
自分のために、本当の自分を隠していい子に振舞うのかもしれないけど、それって本当に自分のためと言えるのだろうか。
本当の自分を隠していたら、自信がなくなってくるんじゃないかと思う。
例えば、「○○さんはいつも真面目に授業を受けていてすごいね。」と褒められたとしよう。
それは仮面を被った自分だから、仮想の自分以外の誰かを褒められた気分になるのでは?
もちろんいつも笑顔で明るいことが、素の人もいるとは思う。しかし、それ以外のネガティブな部分を隠そうとするのはなぜなのだろう。
私は常に先生に媚びない学生だった。反抗したいとかではなく、これが自分の素だから、そのままでいるだけなんだと主張するかのように自然体でいた。
だから、先生が言ったことが納得できなかったら返事もしないし、相槌も打たなかった。
ルールとしてあるなら理解できるが、先生個人の意味不明な考えを、教師という立場を利用して言われるのが、気に食わなかったのだ。
先生の言いなりになっていても苦しいだけだし、いつまでも仮想の自分を相手の中で作られてしまう。
部活の時も友達や先輩、先生に接するときの態度はあまり変えていなかった。
年上と話すときは敬語になるくらいで、自分の考えを相手に合わせて曲げようともしないし、褒められようと思ったこともなかった。
今になって考えると、自分は誰かに嫌われても構わないと思う性格だからだということに気づいた。
中高時代こうして過ごしていた私は、23歳になって「常に素でいる」というアイデンティティが確立した。
常に素でいるから、自分に嘘がつけない。
常に素でいるから、友達と深い関係性を築ける。
常に素でいるから、傷つきやすい。
常に素でいるから、己を貫ける。
社会人になると、多少の仮面を被らないといけない、と言っている人がいた。
でも、私は社会人になったからこそ、仮面を被ってはいけないとさえ思う。
仮面を被って生きていくと、「どの自分が本当の自分か」なんて途方もない疑問が生まれ、地獄が始まるだろう。
そりゃあ自分のことしか考えずに他人に迷惑をかけるのはわがままだ。
しかし、自分に正直でいて、やりたいことをやるというわがままは自尊心の尊重であり、人間はそれがないと生きていけない。
わがままという言葉は、自分を尊重できるというプラスの言葉なのだ。
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