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主張することを諦めた人へ


授業の文章で読んだことがあるのだが、鉄より木のようが万能で使いやすいというのを聞いたことがある。

こんなことは当たり前だけど、これは人間にも言えることなのではないかと感じる。

小学生の時は「みんなと仲良くしなさい」
高校生の時は「勉強をおろそかにするな」

そう言われてきた。

個人の意見はそれぞれあるけど、多数派に合わせないと管理する立場の人が統一しずらいし、面倒くさいのだろう。

就活だってそうだ。

「この会社で働きたい」と目をキラキラしながら特に何も考えずに話せた方が、早々と内定を貰える印象。

「この人は、指示をしてもそのまま何も言わずに仕事をしてくれそう。この職場で長く働けそうだ。」と言わんばかりに。

それくらい個人の意見は、組織や社会に取り入れにくいから、妥協できない人が社会に馴染めないのだと感じる。

そのギャップを感じながら中高と過ごしてきた私にとっては、大学生になろうが社会人になろうがそれは変わらないのだと気づいた。

むしろ社会人になった方が、個性を殺し会社のために働ける人が歓迎されるのかもしれない。

気づかないうちに意見を持っていた人たちも、主張を殺し多数派に合わせるようになっていき、どんどん尖った特徴が丸くなっていく。

人間に持ち合わせる特徴として「コミュニケーション能力」とか「物事を客観視できる力」とか「何事にも打たれ強いタフさ」とか。

そういうものを点数化して図にしてみると、それが丸に近い人なんていないのではないだろうか。

誰もがみんなどこか飛びぬけた能力があり、できないこともある。

他人がそれを丸くすることなんてできないだろう。

そりゃあ丸い人の方が重宝されるし、どんな環境でもやっていけると思う。

でも、それを強制されてはいけないし、周りに合わせて取り繕う必要もない。

私はここができるけど、こういうところが苦手だから助けて欲しいと言って、それぞれが存在するから丸になる。それでいいと思う。

できないことをできないと自信をなくす必要もないし、大人に強制されたからといって言いくるめられる必要もない。

尖っているからこそ強みが見つかり、自分らしさを生きれるのだ。

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