心に蓋をできないもんで
前から気になっていたのだが、インスタやTwitterに本の1部の写真を撮って投稿している人がいる。
それを最初に見た時、「これを載せて何になるのだ?」と思った。
「私もこう思ってるのよ」と言いたいのかもしれないが、その文を書いているのは本の作者が書いたものであって、あなたの意見ではない。
記録のために撮っておいたなら、わざわざ見せなくていいのに。
それとも、読書をしている自分に酔っているのか?
本の文を撮るんじゃなくて、自分で一文書いてみたらいいのに。
もっと自分の言葉で自分の意見を語ってみてよ。
そんな日々の些細なことにも気になって、違和感を覚えるから、めんどくさい。
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私は基本言いたいことを言うし、自分の本当の気持ちに従う方だ。
だから、友達に対しても少しでも異論があったら言うし、それが先輩や先生だとしても言っていた。
大人になるにつれて、そういうことを繰り返していると、めんどうなことになると自覚するようになり、控えるようにはしている。
そんな私にも心に蓋をするときがやってきた。
高校を卒業して地元の短大に入学したのだが、入学早々「そこにいてもなりたい自分にはなれない」と悟った。
そう思いながらも、友達とは一緒にいたいし、せっかく入学させてくれた親の気持ちを考えると、そう簡単に辞めるわけにはいかない。
なんとかこの短大を耐えて卒業するために、学生生活が楽しくなるような工夫をしたり、編入試験を受けて4年大に入るかを考えたりした。
しかし、そんなことで自分の本当の気持ちを騙すことはできなかった。
ほどなくして短大を辞め、浪人するために予備校に通う生活が始まったのだけど、そこでも自分の心に蓋をせざるを得ない時がきた。
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浪人も終盤の頃、私はセンター試験に失敗し、志望校の前期に全て落ちた。
1日12時間勉強を続けていた私は、ほぼノイローゼ状態になっていた。
「もうこれ以上は頑張れない。」
これが本当の気持ちだったと思う。でも、自分が決めたことだからここで諦めるわけにはいかない。
これが私にとって初めて、自分の心に屈した経験だった。
すると、みるみるうちに自分がおかしくなっていくのを自覚した。
人の顔がモザイク状に見えたり、1日が異常にはやく感じたり、
人と少し話すと一日中外出したかのように疲れたり、昨日やったことが全く思い出せず、自分が今ここに居るのか分からなくなったり、
気持ち的にとかではなく本当に物が灰色に見えたり。
この経験を通して分かったのは、人間は自分の心に蓋をし続けて生きていると、精神的にも身体的にもおかしくなっていくことだった。
これは、私の性格である「自分の気持ちに嘘をつかない」は理にかなっていると言うことに気づくきっかけにもなった。
誰しも心に蓋をしなければいいけない時もあるだろう。
しかし、それを続けられるのも時間の問題であり、人間としての機能は成り立たなくなっていくのだ。
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