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爽やかに書きたい

ネガティブなことばかり、心配事ばかりじゃなくて、もっと明るくて元気の出るようなことを書きたい。自分の書いた文章を見返してみると、陽の中にも影があって、毎回それが気になる。

もっと読み手の役に立つようなことを書いてみたい。(節約術とか○○できるようになる方法とか)でも、これができないからこそ自分の良さが出るのではないかと言い訳をしている。

自分の中のモヤモヤや違和感を言語化し、自分のエピソードや感情で膨らませることができることを、自分の価値にして書いていきたいという思いもある。

働く意味とか自分の価値って、自分がそこに付加価値をつけたいと努力できるかどうかなのではないか。

自分を売りにして生きていきたいと思うのなら、自分自身が社会でどの立ち位置にいるべきなのか、どうやってどの人に対して貢献していきたいのかというように、自分自身をマーケティングしていかないといけない。

そこで、自分は何ができるのだろう。誰にも負けない強みはなんだ?と考えてみると、人とうまく接することができない、自分の人生に妥協ができないからこそ言える、正直な気持ちなのではないか。

社会で生きていけないのではないかと悩んでいるからこそ、ありきたりなことは言いたくない。ありきたりなことは万人受けするかもしれないけど、刺さりにくくなる。

自分が劣っていると思うところをみんなと合わせるようにするのではなく、社会での立ち位置を考えながら、自分の短所でも長所でもどんどん鋭く伸ばしていけばいいのだ。

小中学生の時はスケッチ大会がある。あれって絵が苦手な人からすれば、すごく嫌な行事だし、何のために一日も費やして興味のない風景画や学校にあるものを描くのか分からない。

一緒に絵を描く友達を探すという作業もすごく苦痛だ。遠足や修学旅行で一緒に行動する友達を探すあの感じと同じ。

みんな一人で描いていれば目立たないのに、二人や三人と一緒に描くから一人で描いていると浮くのだ。

私は、毎年交互に校庭にあるタイヤか水道の蛇口を描いた。訳も分からず、そればかり描いた。とりあえずみんなが描いているようなものと同じものを描いていれば良いと思ったから。

中学2年生の時に、いつものようにスケッチ大会で蛇口の絵を描いていると、美術の先生に「なんで蛇口なんて面白くないものを描くの」と言われた。

じゃあこっちも聞くけど、なんで友達と一緒に描いていないと変、学校の中にある物を描かないといけない、という縛りがある行事で自由に描きましょうねと矛盾ばかりの行事をするのか、と思った。

自由に描けという割に自由に描けばダメ出しをされる。スケッチ大会って絵がうまい人が発掘されるための謂わばオーディションみたいなもので、それ以外の人は上手い人を引き立てるバックダンサーだ。

そんな感じで次の年はタイヤの絵を描いた。その時に、この時感じた矛盾に対する違和感を絵にしていたら良かったなと今更後悔する。

あの時のように万人受けするタイヤや蛇口じゃなくて、今は私にしか書けない文章を書きたい。

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