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インプットよりアウトプットより、共感を気にしない翻訳をしたい

たっぷりの栄養分、情報を蓄えすぎて、その養分を使う暇もなくそろそろ出荷されそうだ。

小学校でも、中学校でも、高校でも大学でも、たくさんの勉強をして、公式や問題の解き方を学んできた。

この歳になって、その勉強したものはどこへ行ってしまったんだろう。意味がなかったのかな、なんて思ってしまう。

今考えると、インプットしたものをアウトプットする機会が少なかったな。機会というかアウトプットしようとも思わなかったからだろう。

叩き込まれた知識を使うのってテスト期間ぐらいじゃなかったかな。(日頃から練習問題解けよ)

勉強以外でのことなら、友達と自由に色んなことを話すとか、部活で練習したことを大会に活かすとかそういうのはあった。

自分の思想という分野になるとどうだろう。大人になるとますます、「アウトプット」という機会は少なくなるような気がする。(飲み会でするぶっちゃけ話とは違う場所で)

正直に思ってることをそのまま言えるわけでもなくなってしまうから尚更。自分が受け取ったものを「こういうことじゃないか?」「私はこう思う」って自分の意見を言える場って少ない。

自分の頭の中では考えていても、いざ言葉にすると詰まってしまう。

教育機関では、自分の意見を正直に言うのも恥ずかしい風潮すらある。だから「静かだね」とか「本当に理解しているの?」とか言われたりするのだ。

でも、言葉を他人に理解してもらえるような言葉で伝えるのってとても難しい。インプットしたものをそのまま人に話すのは、ただの受け売りだ。

人の感情や考えを経由した、その人なりの翻訳が聞きたいのだ。

そんなことを考え出したのもnoteを始めてからだった。「アウトプット」「インプット」なんてどこの会社かも分からない経営者が言いそうな言葉だな、と自分から遠ざけていた。

noteを始めてから、一日の充実感がまるで違う。自分が疑問に感じたことや日常で心を動かされたことを主体的に文章に書き起すだけで、自分の思考が研ぎ澄まされて言った。

さらに、自分は何を言いたいのか、何に対して怒っているのかが明確になっていくおかげで、自分の性格や好き嫌いもより分かるようになった。

SNSは色んな形式があって、インスタなら写真、YouTubeなら動画、Twitterなら短文や写真というように、日々色んな人が情報を発信している。

インフルエンサーという存在が現れたからこそ、見る側の人は消費者として位置づけられ、発信することもなく、常に情報を吸収している。

自分の立場が反転する日を待ち望んでいたけど、私はインフルエンサーにはなれなかった。

インスタで可愛く加工した写真で取り繕うのも違うし、YouTubeでラジオみたいに語るのもなんかパッとしないし。そんなことを考えた矢先、文章という手段を選び、noteを始めた。

インフルエンサーにはなれないけど、発信したい。発信したいとまではいかなくても、なにか心にあるモヤモヤを表現したいと思う人にオススメなのがnoteだ。

本音は人の目を気にしないところで初めて出るし、自分と向き合ってようやく出てくるものだと思う。

周りの同級生もインスタやTikTokぐらいnoteを始めるようになって欲しいな。

ねえ、本当はどう思ってる?

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