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音楽家紹介「ヨハン・ゼバスティアン・バッハ」


バッハってどんな人?


<ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685年~1750年)>

 バッハはヘンデルと同じく、バロック時代(1600年~1750年)に活躍した音楽家だ。実は、生前は普通の音楽家くらいの立ち位置だった。ところが、ロマン派の時代にメンデルスゾーンという音楽家の手によってバッハの『マタイ受難曲』が上演され、多くの音楽家から注目されるきっかけができた。今では『音楽の父』と呼ばれ、誰もが知る音楽家の一人となった。

 なぜか教会との折り合いが悪く、教会ではトラブルが多かった。また、宮廷から別の宮廷へ乗り換えようとしたことで、一ヶ月間投獄されたこともある。その後、両者納得の上で釈放され無事に転職を果たす。

 有名な曲:『G線上のアリア』
      『トッカータとフーガ』

<おすすめ動画:Life with classics ch J.S.バッハの名曲~>

 個人的なおすすめ:3.ブランデンブルグ協奏曲
          9.無伴奏チェロ組曲第1番ト長調 「プレリュード」

 ブランデンブルグ協奏曲は陽気なテンポでやる気が沸く曲。無伴奏チェロ組曲はアニメ『氷菓』で使用されており、入りの優雅なメロディが深い。ちなみに、『G線上のアリア』も氷菓で使用されている。

バッハで見るバロック時代の音楽家の働き方

 バロック時代の音楽家の主な就職先は2つしかない。それはバッハの経歴にもよく表れている。

<バッハの経歴>

  • ヴァイマル公国領主の弟の宮廷に『ヴァイオリン奏者』として仕える。

  • アルンシュタットの教会で『オルガン奏者』に就任。

  • ミュールハウゼンの教会で『オルガン奏者』に就任。

  • ヴァイマル公国領主の宮廷で『宮廷オルガン奏者』に就任。

  • ヴァイマル公国領主の宮廷で『宮廷楽師長』に就任。

  • ケーテン侯国の宮廷で『宮廷楽団長』に就任。

  • ライプツィヒの教会で『カントル』に就任。

 このように、バロック時代の音楽家の主な働き口は宮廷か教会の二択であった。これは当時の音楽が王族・貴族、または教会のために演奏されることが多かったからだ。ただし、コーヒーハウスでの演奏会や、教会での礼拝など民衆が音楽に触れる機会もたびたびあった。

用語解説

宮廷:王族・貴族たちが集まるための建物群。政治や社交活動などに利用される。王族や有力貴族たちが住まう宮殿も宮廷の中にある。

宮廷楽師長:楽団員のリーダー。部活で例えると部長。
 楽団の音楽方針やプログラムを管理する。

宮廷楽団長:楽団のトップ。部活で例えると顧問。
 楽団全体の運営や予算、スケジュールの管理なども行う。

カントル:教会の音楽監督。付属の学校で教師のような役割も担った。

バッハの面白いエピソード

ガイヤースバッハ事件

 これはバッハがアルンシュタットの教会でオルガン奏者として働いていたころの話。当時、バッハは教会でカントルの代わりに、ラテン語学校の合唱隊の指導も行っていた。

 ところが、この生徒たちの音楽に対する態度はバッハの求めるものではなく、バッハも遠慮ない物言いをしたため、両者の関係は悪いものになった。
 ついには、ファゴット奏者であったガイヤースバッハという少年の技量をバッハが嘲笑したため、両者には決定的な亀裂が入った。

 そんなある日の帰り道。バッハの行く手に6人の少年たちが立ちふさがった。その集団の中心にはガイヤースバッハがいた。
 ガイヤースバッハはバッハに詰め寄ると、手に持っていた棒でバッハに殴りかかった。殴られたバッハも怒り心頭、すぐに短剣を引き抜き応戦しようとする。事態は両者武器を手にしての大乱闘に発展したのだ。

 しかし、幸いなことに、この対決は仲間たちが割って入ったため、大事には至らずに済んだ。が、当然問題にはなった。
 バッハはガイヤースバッハに非があるとして教会に訴えたが、先にファゴットの腕前を侮辱したバッハが悪いという判決が下った。

ヴァイマル宮廷での投獄生活と作曲

 これはバッハがケーテンの宮廷へと転職をしようとした時の話。

 そのころのバッハはヴァイマル公国の宮廷で働いており、奏者から楽師長にまで昇進を果たしていた。だが、楽団長にだけは任命されなかった。そこでバッハはこう思ったのだ。

「もっと良い職場で働きてぇ……」

 そんな時に転がり込んできたのが、ケーテンの宮廷への転職の誘い。バッハはこれを承諾し、ケーテンに移る決意をした。

 ところが、この時バッハとヴァイマル領主との間に連絡の行き違いがあり、ヴァイマル領主はバッハを捕らえ、不敬罪で投獄した。

 それから、一ヶ月に及ぶ領主による説得が始まった。領主もバッハの音楽が嫌いではなかったのだ。だが、領主の説得もむなしく、バッハが気持ちを変えることは無かった。

 そして投獄から一ヶ月後、ヴァイマル領主が転職を承認し、バッハはケーテンへと送り出されたのだ。

 ちなみに、この騒動の間、バッハは獄中で作曲を続けていた。
 『平均律クラヴィーア曲集』というクラヴィーア奏者のための練習曲だ。


<感想的なサムシング>

 ヘンデルといい、バッハといい、音楽家には暴力沙汰がつきものなのだろうか。そう疑ってしまうが、これは完全に杞憂だろう。勝手な憶測だが、音楽に対して生真面目なバッハだったからこそ、このようなエピソードが生まれたのだろうと思う。
 次回は、バロック時代から古典派時代への移り変わりについて話していきたい。クラシック音楽が時代とともに変化していく姿はヨーロッパの情勢と深く関わりがあって意外と面白かったりする。それではまた。


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