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音楽家「モーツァルト」


モーツァルトってどんな人?


<ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756年~1793年)>

 一言で言えば神童。初めての作曲は4歳~5歳頃と言われており、また、一度も弾いたことのないヴァイオリンを初見で弾きこなすなど、天才的なエピソードにこと欠かない音楽家。しかし、その人生はあまりに短く、35歳という若さで亡くなっている。耳が良すぎたため、大きな音の出るトランペットが苦手だったらしい。

 有名な曲:『フィガロの結婚』『魔笛』『ドン・ジョヴァンニ』
      『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』『トルコ行進曲』

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天才モーツァルトの主人公すぎるエピソード

皇帝からの無茶ぶり

 6歳の頃にはすでにチェンバロ(ピアノのような鍵盤楽器)を弾きこなしていた神童モーツァルト。
 彼は幼いころより父に連れられ、様々な都市へと旅に出かけ、多くの人の前で演奏を披露していた。
 モーツァルトは幼い時期からすでに期待の演奏家だったのだ。

 旅をつづけたモーツァルトの名声はまたたく間に広がっていった。
 そして、ついに彼はウィーンの宮廷からの招待を受けたのだ。

 これはそんな頃の話。

 ウィーンを訪れたモーツァルトは、当時のウィーン皇帝フランツ・シュテファンの前で演奏を披露することになった。
 しかし、皇帝は日々の生活に疲れが出ていたのか、幼いモーツァルトに対して八つ当たりのような無理難題を押しつけたのだった。

「鍵盤を布で隠し、さらに指一本で演奏して見せよ」

 これはあんまりだ。そう言いたくなるほど無理難題だ。
 誰が鍵盤も見ずに、さらに指一本でなど演奏できるものだろうか。

 しかし、モーツァルトはこれを難なくこなしてみせたのだ。
 まさに天才。まさに主人公。転生したとか、前世の記憶が残ってましたとか言われても信じちゃうレベル。

 皇帝もこれにはとても驚き喜ばれたという。
 そして、その後モーツァルト一行には宮廷から多くの褒美が与えられたらしい。

逆境に立ち向かうモーツァルト、初めてのオペラ作曲

 モーツァルトが14歳の頃の話だ。

 伯爵からの依頼を受け、イタリアオペラの作曲、そして上演をするためにモーツァルトはミラノを訪れた。

 しかし、天才モーツァルトでもこのオペラの作曲にはとても苦労したのだ。それには現地の音楽家たちの嫉妬や疑いの目が影響していたのだった。

 あるイタリア人はこう言った。

「ドイツ人の少年に、イタリアのオペラが書けるわけがない」

 また、現地のオペラ歌手からのクレームをうけ、モーツァルトは何度もオペラを書き直すことにもなった。

 それでも、モーツァルトはめげずに作曲を重ねオペラを完成させたのだ。
 そして、いよいよモーツァルト初のオペラ作品の練習が始まった。

 さぁ、どんなものかと歌手や奏者は楽器を鳴らす。あるいは、できが悪ければ笑ってやろうと思っていた人もいたのかもしれない。
 しかし、一度練習を交えた途端、彼らの心に宿った疑念の一切は薙ぎ払われていた。たった一度の練習、それだけで彼らはモーツァルトの才能を認めたのだ。

 その後、モーツァルトの初めてのオペラ『ポントの王ミトリダーテ』が上演されたが、当然、大成功を収めたのであった。

プラハとフィガロの結婚式とドン・ジョヴァンニ

 モーツァルト30歳、オペラ『フィガロの結婚式』がウィーンで上演されることになった。
 しかし、このオペラには貴族を批判するような内容が含まれており、ウィーンでは思っていたよりも評価が振るわなかったのだ。

 ところが、一歩ウィーンを離れると、その評価は一変していた。

 当時オーストリア領だった都市プラハでは、この『フィガロの結婚式』が大流行したのだ。

 その熱が冷めやらぬうちに、モーツァルト自身もプラハを訪れた。
 熱い歓待を受け、モーツァルトはいずれプラハでも新作オペラを上演することを約束した。
 そして、その約束通り、プラハで上演された新作オペラこそが有名なオペラ『ドン・ジョヴァンニ』であった。

<感想的なサムシング>

「いや、人生の起承転結完璧かよ」と思うほど、物語的な人生を歩んでいたのがモーツァルトだった。短命でこそあったが、まさに時代の主人公のような立ち位置だったに違いない。

 次回は「交響曲の父」ハイドンの紹介がしたい。それではまた。

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