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『ガリバー旅行記』は政治入門書だ。

アインシュタインは、狂気を


「同じことを繰り返し行い、違う結果を予期すること」

である、と定義した。

さすがである。

かなしいことに、過去の文明をみても、

それらは、急速な成長を遂げては、突如として崩壊する

、という、同じサイクルを偶然ではなく、辿ってきた。

過去に彼ら/彼女らが犯した悲劇的な過ちは、

今、私たちが犯している過ちそのものである

、といっても、過言ではないであろう。

私たちは、今、無限とすら思われていたさまざまな資源が枯渇した世界の中で、

己が生き残れるか否かという原始的な不安に突き動かされ、

きわめて直感的かつ短期的な決断をしているように、私は思う。

これからも、まだ、

自己中心的な生存本能に引きずられながら、

協調的な計画も立てないことは、

自滅的な行為に走っていることと同義であろう。

しかし、私たちは過去のみならず、過去の作品からも学べるはずだ。

ここでは、構造や考えることや学ぶところの似た、

ヴォルテールの小説『カンデーィドまたは楽天主義』(以下『カンデーィド』)

ジョナサン・スウィフトの『ガリバー旅行記』を取り上げ、考察したい。


『カンデーィド』では、世間知らずのカンデーィドが、

戦争、病気、飢饉、火事、洪水、地震、裏切り、欺瞞、偽善など、怖ろしい体験を次々とする。

カンデーィドがこれらに「繰り返し」苦しんでいるのに、パングロス博士は、まだ、いや、また

「すべての可能世界の中で最善の中で最善のこの世界においては、すべてが最善であると」

言い聞かせたりしている。

パングロス博士が、少しでも、

カンデーィドが経験したことを鑑みることが出来たり、

現実主義者であれば、

そうした世界はすべての可能世界のなかで最悪だと結論づけるのであろうが、

パングロス博士の中で楽観バイアスはあまりにも、かかりすぎていた。

ヴォルテールは私たちに、

「私たちが現実の経験からわざと目をそらすこと」≒「私たちの世界がもはや完璧とはほど遠く、常にもっと悪くなる可能性をはらんでいる事実を覆い隠すこと」

だと、警鐘を鳴らし、教えている。

また、『ガリバー旅行記』も

名前のとおりだまされやすいガリバー(→連想に難くないgullibleはだまされやすい、すぐ真に受けるの意味)が

見知らぬ、しかも奇妙な場所に旅をすることで、

人間の愚かさ、狭量さ、ずるさ、自己欺瞞、無関心、わがまま、邪悪さを目にし、

人間嫌いになってしまう。

スウィフトもまた、私たちに、物事(や人生)に対して楽観的に構えると、現実を知ったあとの失望が大きくなるため、

現実離れした楽観論よりも、目の前の経験や現実をみよといっているように思う。

ダーウィンのことばを借りれば、

「生き残るのはもっとも強い種でもなく、最も知的な種でもない。最も変化に適応した種である。」

そうだ。

過去や経験から学ぶ種でもあると、私は付け加えたい。

ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。

子どもの頃に絵本で読んだ『ガリバー旅行記』が、最も素晴らしい政治学の入門書だったとは、年を重ねてから知りました。

今日も頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

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