Josanjin(鋤散人)
葉隠が伝えようとしているメッセージについてのエッセイを書きつづっています。
鋤散人と申します。「葉隠からのメッセージ」と題しエッセイを書き綴っています。私と「葉隠」との出会いは、小学4年生くらいだったと記憶しております。戦後衣食住が全て不足していた時代のある日、退屈で何か自分にも読めるような本はないかと父の書斎の本棚を眺めていると、「葉隠」という漢字2字の書名が目に飛び込んで来ました。子供向けの本ではありませんでしたが、惹かれるように手に取り、難し気な文字ばかりが並んでいるページをめくっていると、父が部屋へ戻って来て「そん本にはね、生きるための知恵の
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宮本武蔵がその著「五輪書」の中で、「死に手」・「生き手」ということについて述べている。 「死に手」とは、刀の柄の鍔元を両の手でしっかりと握り締める状態をいうのである。十本の指に等しく力を入れていると、当然のことながら肘に余裕がなく、突っ張った状態となり、しかも肩に力が入るためにとっさの対応が鈍り、斬突の動作が遅れるだけでなく、敵の刃を受け止めることもかなわなくなるのである。 それに対して「生き手」とは、刀の柄を鍔元から離して左右の手の小指と薬指で握り、それぞれの親指
戦闘で戦死する率は古兵よりも新兵の方が遥かに多いという。それは実戦経験の豊富な古兵ほど何度となく死地を脱して生き残っているうちに、危険に対する本能が研ぎ澄まされ、身を守る咄嗟の行動が機敏になるが、初めて実戦に臨む新兵の場合は、恐怖と戸惑いから判断力を失い、突発的な行動に走る結果、いたずらに命を落とすことになるものらしい。 何事につけても言えることだが、頭で理解している知識だけではうまく事を運ぶこ とはできないものである。その意味において、経験豊富な人の体験談は侮れない。
刀を抜いて決着をつけるのではなく、抜かずして相手の闘争心を削ぎ、円満に事を収めることを「鞘の内の勝負」という。 未熟な者に限って、少しばかりの力量を頼み、大見栄を切ったりするものだが、極力争いを避けようとする心と、相手を受け入れるだけの度量の大きさがあって、はじめて相手を制することができるのである。 「胸中にゆるりとしたる所」を備えた人というのは、常に他を受け入れるだけの度量の大きさを持っているために、無理のない雰囲気を醸し出し、相対する人から不必要な緊張感を巧まずして取
堂々として厳かなことを「威厳」というが、内部から発する底知れぬ雰囲気であるだけに、その人となりが推し量られるものである。 「新刀のあだ光り」という言葉があるように、今どき出来た粗雑な刀が、厳選された玉鋼で熟練した刀匠が精魂を込めて鍛え上げた「古刀の底光り」には到底及びもつかないように、人の輝きもまた同様である。いかに外見を整えたところで、凛とした内部からの輝きは伝わってこないのである。 人が全身全霊を傾けて物事に取り組んでいる姿や、従容とした振る舞い、何時如何なる相手に
人は自己の存在に意義を感じ、充実感に満たされているとき、幸福を実感する。「生きがい」を感じる瞬間でもある。 自分の持ち味、能力が存分に発揮され、それが周囲に十分に評価されることによって「生きがい」は生まれるものならば、打ち込んで悔いの残らない道をまず選ぶことである。 またたく間に過ぎ去ってしまう人生の、限りある命を燃焼しきることこそ生きた証でもある。 常朝は、ともすれば若者が好きなことだけして、自分の意に添わないことには一切振り向かないという浮薄な考えでこの言葉
「笑止」という言葉には「馬鹿馬鹿しくて笑うべきこと」という意味の外に、「世にも珍しい異常な出来事」という意味もあり、この場合がそれである。つまり、不慮の出来事に遭遇して、気も動転している者に対して、「この度は大変なことになりましたね。」などといった言葉を安易にかけてはいけないと言うのである。なぜならば、その言葉によって当事者は直面している事態の深刻さを一層意識し、頭の中はますます混乱し、心の整理がつきにくくなってしまうからである。 我が国では古くから言葉の意味を良い方に
常朝は父山本神右衛門重澄の七十歳の時の子である。「我は老人の子なる故、水すくなしと覚え候。」と言っているのはそのためである。昔は父親が高齢のときに生まれた子供は、萎びて生気に欠け短命であると考えられていたようだ。したがって、若い時医師が「二十歳を越すまじく」と言ったのだろうが、さすがにこの言葉には反発し、「さらば生きて見るべし」と発奮している。 常朝は以来、体質改善を目指して「飲食、淫欲を断って、灸治間もなくする」といった徹底した自己管理に努めている。そして、摂生こそが
人生には必ずチャンスが巡って来るものである。この巡り合ったチャンスを生かし切ることが大切である。ただし、行動を起こすに当っては、三つの「利」をしっかりと見定めて掛からないとせっかくの好機到来も水泡に帰することになるのである。その良い例が本能寺の変における明智光秀の失敗といえよう。光秀は「三つの利」が最高の状態ではなかったことを読み違えたのである。 三つの利とは、「天の利」・「地の利」・「人の利」である。天の利は確かに光秀にあった。信長は僅かな小姓たちを供として、無防備と
戦後疲弊しきった国力も回復し、不死鳥のごとく蘇った日本は、奇跡的なまでの経済成長を続け、経済大国としての着実な歩みは世界中の羨望を集めることとなった。 巷には物が溢れ、欲望はお金さえあれば簡単に満たされるようになり、自由を謳歌する人々の間には中流意識が定着し始めた。この時代に生まれ育った人たちは、食うに事欠く経験も寒さに震える経験も無いだけに、戦中戦後の耐乏生活の中を生き抜いてきた人たちとは価値観を初め、あらゆる点においてものの考え方が異った。古い世代の人々は、高度経済
人と話をする場合、まずじっくりと相手の話に耳を傾けることである。 感情的にならずに言い分を聞いているうちに、論理の矛盾点も見えてくるし、相手の自尊心を傷つけることのない対応も思いつくものである。 理屈を振り回して押しまくってくれば、まず柳に風と受け流し、頃合を見計って、相手を立てながらも論理の矛盾を一つ一つ投げかけていくと、それまでの気勢はおのずと削がれるはずである。相手の呼吸が乱れたところで礼を失しないように気を配りつつ、こちらの意見をやおら述べていくと、案外納得し
信用こそ全ての基本である。ただし、信用は一度失墜すると回復は容易ではない。にもかかわらず過ちを犯してしまうのは人間の性かも知れない。「ちと仕合せよき時分」になると、「やがて乗気さし、自慢・奢が付きて」傍若無人な振る舞いとなって、周囲に「見苦しく候」と眉を顰めさせることになる。 人は失意のどん底に在るときよりも、得意の絶頂に在るときの方が、自分の感情をコントロールできなくなるものである。「得意冷然 失意泰然」という言葉はそれを戒めたものである。自制心を身に付けておくべきであ
尺八という楽器は音が出るようになると、「大きく吹け。竹を吹き割るようなつもりで吹け。」と、気迫を込めた吹奏が求められる。なぜなら、さまざまなテクニックを駆使して演奏できるようになったとき、この大きく音を出すという基本を疎かにしていると、微妙な音色も出せないし、琴や三味線との合奏の際、尺八の音色を際立たせなければならないところでかき消されてしまい、持ち味が発揮できないのである。したがって、初心者がきれいに吹こうとすると、「座敷吹き」といって厳しく戒められるものだ。狭い座敷では
世の中には「一言居士」と言われて敬遠されがちなタイプの人がいるものだ。これは「一言抉る」を人名になぞらえたもので、「抉る」は鉄棒などで扉を抉って開けるといったときに使う言葉で、透き間などに物を入れて捩るという意味で用いる。即ち、他人の意見に対して、何なりといちゃもんをつけて自分の意見を強引に主張して、その場をひっかき回しては悦に入るタイプである。 このような人はとかく批判精神が旺盛で、他人の揚げ足を取ることに喜びを覚えるあまり、意見にしてもその場での思いつきが多いために
説教されて快く思う人間などいるものではない。まして素直に実行に移す人など正に「稀なり」である。 ただし、三十歳を過ぎると説教をしてくれる人はめっきり少なくなるものだ。分別が十分にできる年代になったということで、遠慮するのであろうか。しかしながら、ここからが危ないのである。辛辣な忠告が遠ざかって、つい自分の言動に歯止めが効かなくなり、そのために人の心を傷つけては反感を買ったり、失笑を買うような事をしでかしては馬鹿さ加減を露呈したり、信用を失墜するのも自己過信のこんな時