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レース前日の1000mは本当に必要?

 先日、私が受け持つゼミで、水泳選手のスタート時、後ろに置いて蹴る足と、前に置く軸足とどちらが利き足なのかについて書かれた論文を輪読する機会がありました。手と違って、利き足を意識する機会はあまりないですよね。陸上競技でいえば、スターティングブロックの前の足と、後ろの足のどちらが自分の利き足なのかを明確に答えられる人は少ないのではないでしょうか?
 調べてみると腕と違って足には明確な利き足の定義はないようです。使いやすい足、もしくは力を発揮できると本人が信じている足が利き足であり、それは本人のこれまでの経験によって決めているように思います。ただ実際はどちらの足を前に使ったほうがより高いパフォーマンスができるのかを、様々な観点から検証してみる必要があるはずです。

 似たようなことはスポーツの世界において、自分の体以外のことでも多く見られます。私は小学校の頃、野球をしていましたが、「練習中は水を飲むな」と指導されていました。そのため、夏の練習後はのどが渇きすぎて、帰り道のたこ焼き屋さんで冷たい水をもらってゴクゴク飲んでから帰っていました。大人になった今、商品を買わない子どもにやさしい対応をしてくれたことに感謝しかありません。その他にも「肩を冷やしてはならない」、「プールに入るのもダメだ」とも言われていました。私と同じ世代ではこのような経験を持つ方は多いと思います。今となっては指導者が過去の流れを安易に踏襲した間違った教えと言えるでしょう。

 陸上競技でもこうしたことは多く見られます。中でも代表的なものはタイトルにも書いた「レース前日には1000mの刺激を入れるべき」というものです。
 私は現役時代からこれに疑問を抱いていましたし、実際のところ、前日に1000mをやってもやらなくてもレースでのパフォーマンスは変わりませんでした。大切なのはコンディショニングに入る前にどんな練習をやったかであり、ピーキングをどう成功させるかです。しかしこの「1000m」は必要不可欠なものとして、盲目的に「やるべきこと」として多くの方に刷り込まれている気がします。
 
 私はいろいろ疑問を抱くタイプなので、普段、自分がやっていることでも、全く逆の発想で取り組んでみることがあります。城西大学では低酸素トレーニングを積極的に取り入れていますが、ある時「高濃度酸素吸入によるトレーニングをしてみたらどうなるか」と思い、実際にやってみました。

トレッドミルを用いて高酸素トレーニング


 血液中のヘモグロビンに酸素が結合している割合を表す酸素飽和度は、通常、安静時98%あたりですが、高濃度酸素を吸入すると100%になります。また、通常の強度が高いインターバルトレーニングの後半でそれは90%近くまで低下しますが、高濃度酸素吸入時は血液中に多くの酸素がいきわたるために90%後半を維持して驚くほどに運動能力が向上し、5000メートルを自己ベストのペースで余裕を持って走りきれたのです。

走行直後でも高濃度酸素下では酸素飽和度は100%!

 これは指導を考えるうえで大きなヒントになりました。ある程度競技力が高まるとインターバルトレーニングの後半において、足の筋群に余裕がありながらも、呼吸循環器系の能力が限界に達してしまい、ペースが上がらないケースがあります。同じ体の中でも筋と呼吸は常に同じタイミングでキツくなるわけではないからです。

 しかし高酸素環境下では上記の理由により呼吸循環器系に余裕が生まれ、常酸素環境下ではありえないスピードの維持が可能になり、結果的に足の筋群へ負荷をかけられ、脚筋力強化ができる可能性があるのです。このトレーニングで、マラソンで30km以降に足が止まるような事態も克服できるかもしれません。こうした逆転の発想も時には必要なのではないでしょうか。(高酸素環境下でのトレーニングは濃度や吸入時間によっては健康を害する可能性もありますので、しっかり安全管理できる指導者の下で行う必要があります)
 
 他にも「1区間20㎞超の箱根駅伝に対応するには、走行距離を増やさなくては」とか、「長距離選手に高重量でのウェイトトレーニングは有害」、「足を故障したら必ずアイシング」といった思い込みは陸上長距離界に多くあります。確かにそれが正しい局面もありますし、こうした決めごとは指導者や選手の安心材料になりますが、あくまでもトレーニングは「手段」であり、「目的」は競技会でパフォーマンスを発揮することなのを忘れてはいけません。しかし考えが硬直化すると手段が目的化してしまい、トレーニングのためのトレーニングになってしまう危険性がありますので、本来の目的にまっすぐ向かっているかを常にチェックする姿勢が重要です。

最近では長距離選手でも高重量のウェイトトレーニングが行われている

 思い込みをいかにして排除するか。これは指導歴が長くなればなるほど難しくなります。それは「この練習をしたから、選手はレースで好結果を残した」といった経験が蓄積されるからです。もちろんそれは何物にも代えがたい財産であることは間違いありません。しかしシューズは年々、進化していますし、トレーニング科学も日々、進歩を続けています。なにより選手の体や能力、特性はひとりひとり異なるのです。過去の選手が成功した手段が、今の選手にも有効だとは限りません。そのことを理解し、今、目の前にいる選手に合った方法を常に考えるようにしなければなりません。

 常識を疑い、「今、当たり前にやっていることは本当に必要なのか」、「やっていないことは本当に不要なのか」をこれまでの経験だけに頼るのではなく、科学的な視点で検証しながら指導を進めたいと思っています。
 そして結論。タイトルに書いた前日刺激は、挑む種目によって変わってきます。運動生理学的な観点から考えるとトラック種目であれば軽いジョグに加え、スパイクに履き替えてラストスパートを意識した80~100m程度のスプリントで筋と神経機能へ刺激を入れるといいでしょう。ハーフマラソン以上の距離であればジョギング後にウィンドスプリント(流し)を行えば十分。1000mにこだわる必要はないですし、長い距離での疾走はテーパリングの観点からあまりお勧めしません。ただ個人差はありますので、やるとやらないとではレースでの自分自身のパフォーマンスがどう変わるのかを検証しながら、「レース当日に最高の状態をつくること」を目指して調整の計画を立てるといいと思います。
 


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