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読書とわたし( 2012年4月21日 )【 エッセイ 】

「 一杯のカクテルが人の人生を変えることがある。 」というのは、とある小説の冒頭の文ですが、「 一冊の本 」が人の人生を変えることもあるのです。


私には小5の頃に、たった一人で無人島に漂着した経験があります。頼るべきものもなく、毎日が死ぬか生きるかのサバイバル生活を送ったのです。強烈な体験でした。

きっかけは、担任の「面白いよ」という一言と、私の前に差し出された一冊の本。それは、ポプラ社の少年少女文学館シリーズ「 ロビンソン漂流記(デフォー作) 」といい、その本のずっしりとした重みは今でも思い出すことができます。

本の扉を開いた姿は、まるで両手を開いているように見えます。それは「読んでください」と求める本の心でしょうか。私は扉の中に入り、その見たこともない世界を楽しみました。

そこでは、私は私でなく船乗りのロビンソン・クルーソーという人物として人生を送ったのですが、生きるための知恵、行動力、忍耐、これらは同時に私自身の感覚として残りました。冒険を終え、本の扉を閉じると不思議な昂揚感がありました。本を閉じた姿は、合掌した形に似ています。それは「 いい本をありがとう 」と感謝する少年の気持ちだったのかも知れません。
           


読書の意義というと、あまりに教養的な響きがありますが、一度きりの人生において自分以外の人生を追体験できるというのは、読書の持つひとつの醍醐味です。

私たちが生まれるずっと以前の歴史やその時代の匂いや風を肌で感じ取り、人類の積み重ねの一端にふれることで、「 これから私たちはどう生きるのか 」という問題について思いを巡らすきっかけにもなります。その過程で作者や主人公に感情移入し、自分の問題として考えを深めることで、人生や人間にたいして今まで気づかなかったことに、気づけるのだということを、私は本に教わりました。

それからは、次々と本の扉を開けては、物語の世界を堪能しました。意図せず読書は生活の一部となっていました。また、自発的な読書は、強制される勉強とは違って、いつでも、どこでも、好きなときに、好きなものを、好きな分量だけ読める楽しさがありました。


中学時代は、学校での休み時間に、信号を待ちながら、電車やバスの中で、朝のトイレや風呂の中、布団の中で、江戸川乱歩、コナン・ドイル、星新一、宗田理、マイクル・クライトンを筆頭に、その他様々な本を読み耽りました。今でもそうですが、カバンやポケットの中には常に本がありました。教員のすすめで読書記録をつけ始めたのもこの頃からで、それは書名、作家名、出版社、ページ数、読了日だけを記した簡単なものですが、読書意欲を高めるには十分な効果があったようです。

高校時代には、色々な本を読んで影響を受けてはその作家の講演会や地方の文学館に足を運んだり、書店や古本屋を探しては本を買い漁りました。本屋の匂いは、時には便意をもたらしたりもしましたが(失礼)、その場所に留まらせることを躊躇させませんでした。

また、本が背中(背表紙)を向けて並んでいるのは、「 私を探して下さい、私を読んで下さい 」と主張しているようで、それでも背中を向けている謙虚さが健気で良いですね。進路講習のときには「 本が読めるような仕事をしたい 」と発言し、周囲をあきれさせました。


大学に入ってからは、担任のすすめで読書日記をつけ始めました。(こう振り返ってみると、教員の一言で方向が示されてきたことが多いですね。)「 基礎は必ずや読書になければならない 」とは、読書家として知られるサミュエル・ジョンソン博士の言葉ですが、その通りだとしても、記憶とは頼りないもので、せっかく身につけたと思ったこともすぐに忘れてしまいます。ところが、読書日記をつけ、どこでも心に響いた箇所を引用して、折に触れて読み返したりすると、記憶への定着率がはるかによくなりますし、その本への理解も深まります。ついでに、その本と出会った状況などを書き込んでおくと、備忘録にもなります。

現に、いま2000年春から2012年明けまで12年分の「 読書日記 」を読み返しているところですが、読書したときの印象がさまざまとよみがえってくるのを感じます。
          
さて、ある読書家の論によると「 人は自分の本棚の本のような人生を送る 」らしいですが、得てして私は、教職につきました(※2004~2015年)。「 本が読めるような仕事 」としてはうってつけかも知れないな、と今は考えています。


一を教えるには十を準備しなければなりません。本はいつの時代も知識の宝庫で、学問の基本は読書です。したがって自然と読書量は増えましたが、学生時代からの読書習慣に助けられ、授業研究はいつでも楽しいです。

また生徒たちにとって、私は一時の師匠に過ぎませんが、生徒が本と出会うことができたら、一生の師匠に出会ったことになります。それで、生徒たちにも「 本は読まなければならない 」と強要するのではなく、常に「 読書は楽しい 」というシンプルな事実を伝えるという姿勢で、読書指導を行ってきました。

授業前の出席をとる時には、生徒たちに現在読んでいる本を掲げながら返事をさせる。これでお互いが、世界一短い読書紹介をすることになります。

また、課題を終えたり時間の余裕が出来た際には、許可を与えて本を読んでも良いことにしています。昼休みには、当番制で生徒たちと一緒に図書室を運営しています。書棚には、私が今まで読んできた本や、読書活動を通じて知り合った方々からの寄贈本も少なくないです。ひとつの例として、教員となって始めた読書ブログで知り合った日本の青年からの手紙を一部紹介します。

 <・・・本を選ぶにあたって「 個人的な読書体験の押し売り 」をするつもりはなかったのですが、今の僕の蔵書量では、その域を脱するのはいささか難しかったようです。が、選別を進める内に、「 それでいいのではないか 」と思うようになりました。好きな本を人に薦めてしまうのは、読書好きの性ですものね。僕は、「 先生 」という職業をとても尊敬しています。根気のない自分には決して出来ないと思うので。中でもジョナさんのように、学生が自分の道を拓く手助けを積極的に行う方には、強い尊敬の念を抱いています。今回贈った本たちが、その「 手助けの手助け 」になってくれたら嬉しいです。それでは、これからもお互い、よい読書を。学生の皆さんにもそうお伝えください。〉

図書室に本が届いた時の生徒達の「 キャー、ワー 」という喜びの声は今でも耳の奥に残っています。本が人と人を結ぶ。とても素晴らしいことですね。


こうして振り返ってみると、読書によって私という人間が作られてきたのだな、ということを改めて強く感じます。本との出会いがなければ、今の自分はいなかったでしょう。

私にとって本を読むことは、呼吸をすること、すなわち「 生きること 」。これまで千数百冊の本を読んできましたが、この世界には、まだ読まぬ本のいかに多いことか。これからも人類が生み出した本という優れた文化を味わい、人生をさらに豊かなものにしたいものです。(完)

雑誌「 イオ 」5月号にエッセイとして掲載されました。

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