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「ダブリン酔夢譚」

入国編

8月下旬、
何十時間ものフライトを耐え抜き、私はアイルランドの地に降り立った。

アイルランドの地といっても、まだ入国審査を通過前のため、正式にはまだアイルランドではない。

飛行機から降り、訳もわからず前の人に続いて歩いていると、二手に分かれた入国ゲートへの道が現れた。

EU加盟国の人かそれ以外か。

颯爽と通り過ぎて行く”ヨーロッパのひと”を横目で見ながら、1時間は待ちそうな列を目の前に、大縄跳びの順番を待つ時のあの不安に駆られていた。

ネットで何度も見た入国時の想定問答。
「目的、期間、滞在場所。目的、期間、滞在場所。」
頭の中で何度も唱えて、この順番で聞かれることを願う。

「Next」

審査官は不機嫌そうに大きな声を張り上げ、案内係が私の方を見て手招きをする。私は入国書類の入ったクリアファイルを胸の前でギュッと握り締め、審査官の前に進んだ。

「How are ya」

さっきの不機嫌な声は空耳だったのかと思うくらい、審査官は笑顔でこちらを見て言った。私が拍子抜けしていると、審査官は私の抱える書類を見て、こちらによこせとジェスチャーを送ってくる。私は咄嗟にパスポートと書類をファイルごと渡して、後は練習した文言をいつ言おうかとタイミングを測っていた。

審査官は書類を吟味しながら、ゴニョゴニョと私に話しかけているのか、はたまた独り言なのかわからない声のボリュームと速さで何かを言った。

私はとりあえず、用意していた「スタディングアブロード」を言ってみる。
「Ha?」と言われ、少し傷つく。どうやらその質問ではなかったらしい。
2度目の質問でようやく「first time」と「Dublin」という単語が聞こえてきたので、「イエス」と言ってみる。

審査官は納得したようで、書類をトントンとまとめて、こちらに強めに返してきた。そして、私が書類を受け取るやいなや「Next」と声を張り上げた。どうやら初めてダブリンに来たかどうかという質問で合っていたらしい。

あんなに準備していた想定問答はなんだったのかと不服に思ったが、ともかくこうして私は、無事に入国審査を通過することができたのだった。

一息する間もなく、次はキャリーケースを回収するため、手荷物受取所に向かった。自分の便の荷物が流れてくるであろうベルトコンベアをながめながら、果たして自分のキャリーケースは何色だったかを考えていると、目の間を薄ピンクのキャリーケースが通り過ぎていった。私のやつはあんなに汚れてないと一旦スルーしたものの、見覚えのあるスマイルフェイスのおにぎりステッカーを見つけて、急いでそのキャリーケースに掴み掛かった。

新品のキャリーケースと選び抜いて貼ったおにぎりのステッカーは、少し離れていた間に見知らぬやつになっていた。

40Lもあるキャリーケースを引き、制限ギリギリまで詰め込んだリュックを抱えて歩きながら、「6ヶ月後に帰国するとき、私はどんな心境でこの空港にいるんだろう」と到着したばかりの私はすでに帰ることを考えていた。こうすることで次から次に押し寄せてくる不安を紛らわしていたのだ。

さて、私が次に達成すべきミッションは、出迎えの人を見つけること。到着出口のドアが開くと、柵の前にウェルカムボードを持った人々が集まっていた。「千と千尋の神隠し」で千尋が豚の中から両親を探す様子さながらだった。

そもそもどんな見た目の人が迎えにくるのかという情報はなく、千尋のように「この中にはいない」という確信を得られるはずもない。

いくら見ても見つからないので、とりあえず到着出口近くで人を探してる雰囲気を醸し出しながら、ウロウロしてみることにした。

キョロキョロしていると、ドレッドヘアで両腕にはびっしりタトゥーの入った男性とバチンと目が合ってしまった。やってしまったと思った瞬間、彼がスタスタとやってきて、私の名前を言ってきた。何で知ってるの?と思いつつ、彼の着ているポロシャツを見ると、胸元に私がこれから向かう学校のロゴが入っていた。

ダブリンについてすぐに「人を見た目で判断するべからず」という教訓を学んだ私であった。しかし、まだ半分は疑い、いつでも逃げられるように彼の後ろを一定の距離を保って歩いた。結局、そんな心配も必要なく、彼に連れられて、ようやく空港の外に出てることができた。

視界が広がり、大きく深呼吸する。以前、台湾に行った時は”八角の香り”が漂っていて、国ごとにこんなにも匂いが違うものなのかと驚いたのを思い出した。

「これがアイルランドの匂いか」

カラッとした太陽の匂いとでも言えようか。
後々知ることになるが、その日はダブリンで稀にみる晴れの日だった。

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