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『四国統一の夢』長宗我部元親の日記

戦国時代、各地で戦国大名たちが権力を拡大していた。四国地方でも土佐の長宗我部元親が台頭し、四国統一を目指して各地を征服していた。一方、本州では豊臣秀吉が天下統一を進める中、四国の長宗我部もその目の前に立ちはだかることとなった。

天正13年の春、土佐を中心に四国三国をほぼ手中に収めた長宗我部元親は、伊予を制圧すれば四国統一が完了すると目論んでいた。しかし、その動きを豊臣秀吉が放置するはずもなく、四国への遠征が始まる。

天正13年 春、土佐

「我が四国統一の計画は着々と進行中。土佐、阿波、讃岐と順調に制圧し、伊予へと進撃を続けている。戦術的には、各地の地形や城の構造を利用し、夜襲や伏兵を駆使して敵を撹乱してきた。しかし、豊臣秀吉の存在が我が背後の大きな影となりつつある。」

天正13年 5月

「情報によれば、秀吉が四国に10万の大軍を率いて進軍を開始したとのこと。その軍勢の大きさと戦術の精鋭さに、我が計画の遂行が危ぶまれる。特に、秀吉の築城術や軍の迅速な移動が頭痛の種となっている。」

天正13年 6月、讃岐

「讃岐の高松城を守るための策を練っている。城の周囲に深い堀を掘り、石垣を高く築き上げることで、豊臣軍の接近を遅らせようと考えている。一方で、偵察部隊を派遣し、豊臣軍の動向や布陣を探るよう指示した。」

天正13年 7月、伊予

「伊予の今治城に籠城。秀吉の軍勢は圧倒的で、城の守りも手薄になってきた。秀吉の狡猾な戦術や包囲網の巧妙さには驚かされる。何とかして彼らの供給路を遮断し、籠城戦に持ち込みたい。」

天正13年 8月

「ついに秀吉との和議を結ぶことを決意。土佐一国を守ることができたものの、四国統一の夢は断たれてしまった。しかし、戦の終息を迎えることができ、多くの命が救われることとなった。」

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