見出し画像

5 論理的な思考力より必要なもの ~盲従する能力~ ①

しつこいですが、これは、フィクションです。

先頭の記事に戻る。

 地方公務員に、必要なことは、何でしょうか。
 前回の「4 地方公務員の知的レベル感 ~「行進」以下が大勢を占める~」の中でも、少し触れましたが、それは、論理的思考力です。会費として雑用係がいただいている税金の使途について、今の使い方が最も合理的だということを、常に説明する責任を負っているからです。「論理的には」、きちんと、「論理的に説明できる能力」、これが一番大切です。
 しかし、一つ、絶対に無視できない現実的な環境要因があります。それは、税という会費を払っている住民の方々の大半が、行政の施策にほぼ関心がないということです。
 2番目の記事「1 地方公務員は、覚悟がいる ~会費とサービスの関係~」の中でも触れましたが、私も含めて、皆さんのほとんどは、日常生活の中で、地方公共団体の仕事を意識していません。つまり、自らが不便や不都合を感じなければ、地方公共団体が何をやっているのかなんて、どうでも良いのです。したがって、地方公共団体に対して、なぜその仕事をしているのか、あるいは、なぜ今のような仕事の仕方をしているのか、なんて問いは発せられることがない。このため、常に、論理的思考によって合理的に説明を行う責務を負いながら、その能力を発揮する場がないのです。ただし、議会に対しては、説明をする必要が生じますが、これは、別途お話しします。

(1) 論理的思考力に代わって必要なもの
 論理的思考力が一番重要なのに、発揮する機会がないので、必要のない能力になっています。
 それでは、都道府県の職員には、実際は、何が必要なのか?「2 「都道府県」という立場 ~実体のない幽霊のような存在~ ③都道府県の職員とは」でも、触れましたが、都道府県の仕事のほとんどは取りまとめです。要は、仕事ではなく作業ですね。何度も言いますが、制度は国が作る。頭を使うのは国。施策の実行は市町村。実施上の工夫に頭をひねるのは市町村です。都道府県はこれらをつなぐだけ。ひたすら、国の作った制度について市町村や事業者に伝える伝言ゲームと取りまとめをするだけです。
 こうなると、飛び抜けた頭の良さはいりません国から言われた通りに作業をこなしていく、そうした能力が大変重要になってきます。難問を解決していく思考力なんていらないのです。
 こうして、あまり理屈を考えずに、言われたことを言われた通りに、どんどんやっていくことが必要です。組織ですので、ある程度、組織の意思を実現していくためには、上意下達という側面は必要です。しかし、都道府県では、日常の仕事のほとんどは、取りまとめなので、ほとんど頭を使わない。こうして、思考能力を育成する機会がどんどん剥奪されていく。
 覚えたことを吐き出すだけが得意な「行進」以下の方々がボリュームゾーンなので、そもそも、論理的に考えるという習慣や発想がないのですが、考える機会自体も削がれていく。こうして、あまり頭を使わずに仕事をする人たちが出来上がり、大半を占めていくわけです。
 これは、都道府県の歴史を振り返れば、さもありなんということで、太平洋戦争で敗れる以前は、知事も官選でして、住民に選挙で選ばれるわけでもなく、中央政府が任命をして派遣して来ていて、これは、中央政府の意思をいかに地方で実現していくかということの表れだったと思います。
 さて、少し脱線しますが、都道府県(一部は市町村にも当てはまりますが)は、いかに考える力を奪われているのかということを、少しみてみましょう。
 地方公共団体がする仕事は、(記憶が正しければ)、法定受託事務と、自治事務に大別されます。講学的には難しい定義があると思うのですが、ざっくりと言うと、法定受託事務は、上位の団体が本来やるべき事務であるが、これを下位の団体に受託してもらってやっている事務です。自治事務はこれ以外の全ての事務になります。法定受託事務の例としては、国政選挙があります。国政選挙は、本来、国が国のために行う事務ですが、実際に、全国津々浦々で、候補の受付や投票所の設置、開票事務などを、国が直接やる術がありません。このため、国が法律によって、この事務は国の事務だけど、都道府県や市町村にやってもらおうと決めたものです。”法定”受託事務ですので、当然、国が地方公共団体に受託させるには、法律で定めることが必要です。この種の仕事は、もともと国の事務ですから、当然、国のいう通りにやらなければなりません。これは、致し方がない事務としましょう。
 次に、自治事務ですが、法定受託事務以外の全ての事務です。つまり、地方公共団体が行っている事務のほとんどは自治事務です。これは、団体固有の事務とされ、建前上は、法令の規定に則ればどんなふうに仕事をしても良いということになっています。
 しかしながら、国は、通知という手段で、地方公共団体をがんじがらめにしてきます。この通知というのは、いやらしいもので、昔は通達と呼ばれ、通達にしたがって事務を行うことが暗黙の了解とされて、あたかも法令の一部のような働きをしていました。しかし、地方のことは地方で決めるという、地方分権の流れの中で、この通達行政は廃止され、建前としては、形式上は、地方公共団体のやりたいように仕事ができるようになりました。
 そこで登場するのが、通知です。これは、地方自治法にも位置付けられた”技術的助言”というものに該当します。この技術的助言は、本当は地方公共団体は好きに仕事をしていいんだけど、「この法律に定められたこの仕事をするのでしたら、こういう風にやった方がいいですよ。」と、国が地方公共団体に助言をするものです。助言なので、聞くか聞かないかは、やる方の勝手ということです。
 しかし、国の助言を聞き入れずに事務を行ったとすると、なぜ、国が日本国全体の知見を持って(国際的な知見も入っていると思いますが)、最も合理的だと示したことに従わないのか。都道府県独自で、国の知見を超えて、合理性を見い出せたのか。通知に従わない合理性について、国に反論できるのか、ということになります。(これができる都道府県があるとすれば、人材的にも財源的にも、東京都ぐらいだと思います。)
 国の持つ知見を超えて、都道府県独自に合理性をもつものを作り上げることは、現実的には、不可能です。このため、国から発信された通知によって、全国津々浦々、同じような仕事がなされるわけです。
 もうひとつは、都道府県の行う事務のほとんどは、法令に基づく事務です。このため、その解釈については、その法令を作った人に聞くしかない。その法令の立法趣旨に始まって、法令案を作成する際に、関係省庁とどのようなやり取りがあり、どのような約束をしたのか(こうしたやりとりや、取り決めの積み重ねが、いわゆる逐条解説本となって、〇〇研究会という名前で、販売されているわけです。)。自治事務だから好きにやっていいよというものの、法令の有権解釈権は、国が持っているので、「どう読んだらいいか、わからない。」と言ったようなときには、国にお伺いを立てるしかないのです。なぜなら、好き勝手にやって、地方公共団体が、裁判で訴えられた時、そもそもの立法趣旨などに沿って事務を行っていたか、つまり、裁量権の逸脱はなかったかという点が争点になり、その際に、国が都道府県の考えと全く違うことを述べたら、都道府県は一気に裁判に負けてしまう。だから、国の考え、国のいう通りにやっておかないといけないということになるのです。
 さらにもっと酷いのは補助金です。最近では交付金という名で、信じられないぐらい、ばら撒かれています。皆さんの記憶に新しいのは、地方創生や、コロナの交付金だと思います。これらの制度設計は専ら国が行っていたのですが、これらの補助金(交付金ですが、補助金みたいなものなので)を充当する事業は、いちいち国の判断を仰がないとだめでした。つまり、国がいいと言ったものには使えるが、そうじゃないものは使えないということです。なぜなら、国がダメと言ったものに当てる補助金は、国の裁量で、結局国がくれないからです。国は、コロナ対策に有効ならなんでも使っていいですよと言いつつ、国のお眼鏡にかなわないものには補助金あげないという手段を使って、実質的に地方を縛り付けているのです。
 ここまで読んでいただければ、地方公共団体の職員が如何に頭を使わなくて良いかということがおわかりいただけたかと思います。こうした環境の中で、伝言ゲームと取りまとめに必要な能力ってなんだと思いますか?
 それは、ひたすら作業をする能力です。自分の価値観や論理とはかんけいなく、ひたすら、伝言ゲームと取りまとめに徹する。論理的思考力なんて、無用の長物で、糞食らえです。
 こうした体質は、七側県に、より最悪の事態を招いて行くことになります。それは、どんな人材を登用していくのかに直結してくるからです。その悲劇の話は、また、次回に。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?