20240301照和にて
博多~大分の旅行記の番外編です。
実は旅行の際、博多で「照和」というお店にも立ち寄っていました。
けれどもそれについて書くと長くなるなと思ったので、あえて触れずにいたのです。
これはこれでひとつの独立した記事を書こうと思っていたのです。
九州福岡出身のアーティストはとても多い。「めんたいロック」なんて言葉もあるほどだ。
その原因のひとつに数えられる
福岡博多の伝説のライブハウス。
それが照和なんである。
1970年。七十年安保。反戦フォーク全盛期の時代に開店したこのお店は、有象無象を玉石混淆に巻き込みながら数多くのアーティストを輩出しました。
当時、福岡教育大学の学生だった武田鉄矢は海援隊を結成し、曲そっちのけの武田節で観客から爆笑をさらっていたし。
私立大学に通っていた財津和夫は自身の立ち上げたチューリップというバンドを連日深夜から朝まで照和で猛特訓して腕を磨いていました。
どちらのグループもメジャーデビュー前。
世に出る前の話です。
シーナ&ロケッツを結成する前の鮎川誠もサンハウスという、めんたいロックの源流とされるロック路線のバンドで照和のステージに立っていました。
そんなライブハウス照和。
ある時、鳴かず飛ばずで東京から出戻りしてきた歌手が歌っていたそうです。
「雨が降っていて傘がない」と歌う彼を
「売れんで傘も買えんとね。かわいそうに」
と武田たちは陰で笑っていたとか。
その歌手は井上陽水。歌っていたのは、もちろん後年大ヒットした「傘がない」です。
フォークソング全盛期。
よその大学生が作ったレコードが福岡に流れてきた事もありました。
何枚か買ってくれ。カンパしてくれないかと。レコードの題は「イメージの詩」
作ったのは、吉田拓郎という名の、広島の無名の大学生だったという事です。
照和の噂を聞きつけて小学生の男の子がライブを観せてほしいとやって来た事もありました。さすがに保護者無しでは難しいからと追い返されたらしいです。
その男の子
(後のチェッカーズの藤井フミヤ)は。
活気づいていたライブハウスには様々な若者が集まっていました。高校生だった甲斐よしひろは、旅行社に就職するも夢を捨てきれずに照和のウェイターとして舞い戻って来ました。
今じゃ老けちゃったけど、昔の写真や映像観るとセクシーでハスキーで、すごいカッコいいんだよなぁ、甲斐さん、、。
チューリップも海援隊も上京した後、照和を仕切っていた甲斐のオーディションによってステージに立った後発組が。
THE MODSの森山達也に、ARBの石橋凌。
THE MODSは今でも最前線で活躍する日本のガレージパンクのレジェンドです。
石橋さんは今では俳優として有名ですが、そもそもはユニコーンやブルーハーツにも影響を与えたバリバリの社会派ロックバンド、ARBのフロントマンでした。松田優作との出逢いから役者の道へ傾倒してゆきました。ちなみに娘の石橋静河さんも俳優になりましたね。
しかしまあ。
古いロック好きからしてみれば何とも豪華なメンバーである。これだけの面子がたった一軒のライブハウスに犇めいていたというんだから凄い話だ。
ミッシェルガンエレファントやBLANKEY JET CITYにも影響を与えたザ・ルースターズ。
今や名優の陣内孝則。ザ・ロッカーズ。
そして。甲斐バンドも上京した後の照和にふらりと現れたのが。
中洲で流しをしていた長渕剛でした。彼のその後のヒストリーはわざわざ書かずとも日本中の人が知っていますよね。
重ねて言うがこれだけの人材が一堂に会したというのは本当に凄い事だと思う。
『英雄は群れで現れる』と言うけれど。
なんだか幕末や維新の時代を思わせる。
何も知らない人からすれば今はただの喫茶店に見えるのだけれど。座って居るだけで熱にさらされるというか、感慨深く、ほけーっと放心してしまうお店なのでした。
僕が最初に照和について知ったのはこの本からでした。
ずいぶん昔、中学生の頃に読んだ本で、武田鉄矢が自身の生い立ちを綴ったエッセイ本です。大学生だった武田青年が海援隊を結成した当時の博多の様子、ライブハウス照和の様子、九州の黎明期のミュージックシーンの様子がありありと描かれていて、とても面白かったです。
最近は校長先生みたいな感じにしか見えない武田鉄矢だけど、若い頃はとても魅力的なキャラクターの人だったんだよな、、。
ちなみにモックン主演の博多ロックを題材にした『ラストソング』という映画もありました。
これも博多の熱い熱が伝わってくる良い映画だったなぁ、、。
タオル買いました。
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