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神社や遺跡、神話(日本書紀・古事記)を頼りに、弥生時代の出来事や日本建国について、あれ…

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神社や遺跡、神話(日本書紀・古事記)を頼りに、弥生時代の出来事や日本建国について、あれこれ想像しています。 関西を中心に 散策しています。

最近の記事

『孝元天皇が物部氏と連携』③大綜麻杵(補足1)阿波の銅鐸埋葬

 前回の記事で、「物部氏の祖」である「大綜麻杵(おおへそき)」と「伊香色雄」の親子の痕跡が、阿波(徳島)にあったという内容を紹介しました。この記事では、「考古学的な視点」で2世紀末ごろの阿波について見ていきたいと思います。    <阿波で出土した銅鐸について> 実は阿波(徳島)は銅鐸の多い地域で、全国で発見されている銅鐸の約1割、50個近くが発見されています。そして、銅鐸は、以前の記事でも紹介したのですが、「阿波だけでなく、出雲・大和を含むエリア」で、出土しており、出雲ー大

    • 『孝元天皇が物部氏と連携』②大綜麻杵

      ここでは、【伊香色雄】より前の世代の物部氏に祖先に着目して、所縁のある神社や伝承について見ていきます。 <大綜麻杵(おおへそき)について>『日本書紀』によれば、大綜麻杵は崇神天皇紀に崇神天皇の母・伊香色謎命の父として記載されているが、他に特記すべき情報はない。 なお、大綜麻杵の妻の名は「高屋阿波良姫」と伝承されている。 名前に、「阿波」がつくことから、現在の「徳島県」あたりに所縁があるのでしょうか? ここで、徳島県で気になる神社を紹介したいと思います。 <五所神社(

      • 『孝元天皇が物部氏と連携』①

        <これまでの記事の振り返り>【3世紀中頃】に「銅鏡の文化」が北九州から大和にシフトしていき、そのころ纏向遺跡(奈良)にて古墳が作られ始め、古墳に銅鏡が埋葬されるようになります。この「纒向遺跡」の成立が『実質的な日本の建国』と考えており、この仮説をベースにいろいろと調べてきました。  これらを理解するために、ここまで次のようなことを調べてきました。 (1)孝霊天皇(7代)の皇子「吉備津彦命」 (2)開化天皇(9代)の皇子で「彦座王命」とその息子「丹波道主命」  (補足)四道

        • 出雲口伝における物部伝承⑬九州勢の東征2回目-4/4

          「出雲口伝」の中で「物部氏」に関連する内容を掻い摘んで紹介しています。 ※この記事は、「親魏和王の都」(勝 友彦:著、大元出版)を参考にしています。詳しくは、この書籍を御覧ください。 <磯城王朝の終わり> 丹波国では、大和の最後の勢力である「道主大王」の軍勢には、物部勢力から寝返った「武内宿祢」の勢力が合流していた。  そして彼らは抵抗を続けたが、最終的には豊国と物部の軍に取り囲まれた。  勝ち目が無いと悟った「道主大王」は、物部イクメ王に降伏した。ここに磯城王朝は終

        『孝元天皇が物部氏と連携』③大綜麻杵(補足1)阿波の銅鐸埋葬

          出雲口伝における物部伝承⑫九州勢の東征2回目-3/4

          「出雲口伝」の中で「物部氏」に関連する内容を掻い摘んで紹介しています。 ※この記事は、「親魏和王の都」(勝 友彦:著、大元出版)を参考にしています。詳しくは、この書籍を御覧ください。 <タジマモリの裏切り> イクメ王の協力者だった「タジマモリ(田道間守・但馬守)」は、イクメ王を襲撃し自分がヤマトの王になろうと陰謀を企んだ。   困ったイクメ王は、出雲を攻略した「物部十千根(秋上十千根)」に、タジマモリを追討するするように頼んだ。そこで「物部十千根」は旧・出雲王家の富家に

          出雲口伝における物部伝承⑫九州勢の東征2回目-3/4

          出雲口伝における物部伝承⑪九州勢の東征2回目-2/4

          「出雲口伝」の中で「物部氏」に関連する内容を掻い摘んで紹介しています。 ※この記事は、「親魏和王の都」(勝 友彦:著、大元出版)を参考にしています。詳しくは、この書籍を御覧ください。 <その頃のヤマトの情勢> ヤマトでは、オオヒビ大王(大日日・開化天皇:9代)が治めた後、その王子である「ヒコイマス王」(彦坐王・日子坐王)が大王になっていた。  ヒコイマスの拠点は、大和盆地の東北にある「和邇の地」にあった。  第2次物部東征が始まる前に、ヒコイマスはなくなった。その王子の

          出雲口伝における物部伝承⑪九州勢の東征2回目-2/4

          出雲口伝における物部伝承⑩九州勢の東征2回目-1/4

          「出雲口伝」の中で「物部氏」に関連する内容を掻い摘んで紹介しています。 ※この記事は、「親魏和王の都」(勝 友彦:著、大元出版)を参考にしています。  詳しくは、この書籍を御覧ください。 <2回目の東征の動機>『三国志』「呉書」呉主伝には、黄竜2年(西暦230年)の出来事として次のように記されている。 (呉王・孫権は)将軍の衛温と諸葛直とを派遣し、武装兵1万を率いて海を渡り、夷洲(沖縄)と亶洲(九州)とを探させた。  しかし、この洲は遥かな遠方にあって、衛温たちは結局、

          出雲口伝における物部伝承⑩九州勢の東征2回目-1/4

          出雲口伝における物部伝承⑨大彦VS物部(補足)近江の銅鐸埋葬

           前回の記事で、出雲口伝に関連する書籍より、「第一次物部東征」において「物部勢力」に圧され「大彦軍」が北に退却した内容を紹介しました。  この記事では、「考古学的な視点」で2世紀末ごろの近江について見ていきたいと思います。 <野洲川付近の主な弥生遺跡>【服部遺跡】 弥生時代前期の広大な水田跡がある。 野洲川が形成した三角州に営まれた集落。 【下之郷遺跡】 弥生時代中期の大環壕集落。 【伊勢遺跡】 弥生時代後期の1世紀末にできた集落 2世紀末(倭国大乱の頃)に突然、放棄さ

          出雲口伝における物部伝承⑨大彦VS物部(補足)近江の銅鐸埋葬

          出雲口伝における物部伝承⑧九州勢の東征1回目-3/3

          「出雲口伝」の中で「物部氏」に関連する内容を簡単に紹介しています。 ※この記事は、「親魏和王の都」(勝 友彦:著、大元出版)を参考にしています。詳しくは、この書籍を御覧ください。 <物部勢力の第一次東征:ヤマト争乱> フトニ大王が吉備に去った後に、ヤマト政権の大王となったのは、クニクル大王(孝元天皇・8代)であった。  このクニクル大王には、登美家のクニアレ姫を后(正室)に迎え、大彦とオオヒビ(大日々・開化天皇・9代)とモモソ姫(百襲姫)の御子たちがいた。  ちなみに

          出雲口伝における物部伝承⑧九州勢の東征1回目-3/3

          出雲口伝における物部伝承⑦九州勢の東征1回目-2/3

          「出雲口伝」の中で「物部氏」に関連する内容を簡単に紹介しています。 ※この記事は、「親魏和王の都」(勝 友彦:著、大元出版)を参考にしています。詳しくは、この書籍を御覧ください。 <熊野への上陸>イツセを亡くした「物部勢力」は、態勢を整えるため、船に戻り、南の潮岬を周り、熊野新宮付近に上陸した。 <和歌山県 新宮市にある徐福伝説>※出雲口伝関連の書籍では、 新宮市の徐福伝承は、この際の出来事が起源と考察されています。 熊野に上陸した後は、新宮川(熊野川)を北上し、熊野

          出雲口伝における物部伝承⑦九州勢の東征1回目-2/3

          出雲口伝における物部伝承⑥九州勢の東征1回目-1/3

          「出雲口伝」の中で「物部氏」に関連する内容を簡単に紹介しています。 ※この記事は、「親魏和王の都」(勝 友彦:著、大元出版)を参考にしています。詳しくは、この書籍を御覧ください。  九州の筑後川流域を中心に徐福の後裔は住んでいた。 ※出雲口伝ではこの勢力を物部政権や物部勢力と表現しています。 <物部勢力の第一次東征:出発> その当時(2世紀末頃)、【九州勢力】の指導者は、ナギサタケ王の御子のイツセ(五瀬)であった。彼は弟の三毛野や稲飯と協議し、国の中心は、近畿地方が良い

          出雲口伝における物部伝承⑥九州勢の東征1回目-1/3

          出雲口伝における物部伝承⑤ヒボコ一族の侵攻(補足)

          前回の記事で、「ヒボコ一族の播磨への侵攻」について紹介しました。 この記事では、「考古学的な視点」で2世紀末ごろの播磨について見ていきたいと思います。  「兵庫県加古郡播磨町」に【大中遺跡】(弥生時代後期)があり、そこには「兵庫県立考古博物館」と「播磨町郷土資料館」が建てられています。  今回の内容は、そこで得た「播磨地域の歴史」の情報をベースにしています。 <弥生時代中期の集落>稲作に適した川沿いや 海辺に開いた平野部を中心に 集落ができていました。 このことからも、弥

          出雲口伝における物部伝承⑤ヒボコ一族の侵攻(補足)

          出雲口伝における物部伝承④ヒボコ一族の侵攻

          「出雲口伝」の中で「物部氏」に関連する内容を掻い摘んで紹介しています。 <記紀におけるヒボコの記録> ヒボコは、「天日槍」「天日矛」「天日桙」(あめのひぼこ)などで記載される人物です。 『日本書紀』では、「垂仁天皇(11代)の御代に、新羅の王子である天日槍が渡来した」と書かれています。 天日槍は初め播磨国の宍粟邑にいた。その後、菟道河(宇治川)を経て、近江国の吾名邑に移動した。それから若狭国を経由して但馬国に居住した。 『播磨国風土記』では、次のような伝承がある。  葦

          出雲口伝における物部伝承④ヒボコ一族の侵攻

          出雲口伝における物部伝承③天村雲の誕生

          「出雲口伝」の中で「物部氏」に関連する内容を掻い摘んで紹介しています。  ※なお、「出雲大国とヤマト政権」(富士林雅樹:著、大元出版)を参考にしています。詳しくは、この書籍を御覧ください。 <天村雲の誕生> 丹波の「香語山(かごやま)」は筑紫の「穂屋姫」を后に迎えることとした。言い換えると、徐福の異母兄妹が結婚したことになる。  そして生まれた長男が「村雲」であった。  村雲は「丹波」にいたときは「海部家」と呼ばれていた。 そして「ヤマト地方」に移住したときに、鴨都波神

          出雲口伝における物部伝承③天村雲の誕生

          出雲口伝における物部伝承②徐福の来日2回目

           「出雲口伝」の中で「物部氏」に関連する内容を 簡単に紹介しています。  ※なお、「出雲大国とヤマト政権」(富士林雅樹:著、大元出版)を参考にしています。詳しくは、この書籍を御覧ください。 <筑紫での徐福> 出雲口伝では、徐福の二回目の来日の地は 北九州の佐賀平野でした。  徐福は、筑紫では「饒速日(にぎはやひ)」と名乗った。  故郷の地名「饒安(じょうあん)」から「饒」の地を使ったものと考えられる。つまり、徐福は「出雲」では「ホアカリ」と名乗り、「筑紫」では「ニギハヤ

          出雲口伝における物部伝承②徐福の来日2回目

          出雲口伝における物部伝承①徐福の来日1回目

           【3世紀中頃】に「銅鏡の文化」が北九州から大和にシフトしていき、そのころ纏向遺跡(奈良)にて古墳が作られ始め、古墳に銅鏡が埋葬されるようになります。この頃が『実質的な日本の建国』と考えており、この仮説をベースにいろいろと調べてきました。  この後は「物部氏」について調べていく予定ですが、ここで避けて通れないのが「物部氏」に関する多くの伝承がある「出雲口伝」です。 「出雲口伝」関連の書籍については過去の記事で少し触れたのですが、「出雲口伝」における「物部氏」に関連する内容

          出雲口伝における物部伝承①徐福の来日1回目