シェアハウス・ロック2405初旬投稿分

明六社、『明六雑誌』0501

 明六社、『明六雑誌』は、近代日本語の成立に大きく寄与している。もちろん、近代日本そのものの成立にも、大きな役割を果たしている。
 アメリカから帰国した森有礼が、明治6年7月(1873年)に、欧米で見聞した「学会」を日本で創立しようと考え、まず「帝都下の名家」を召集するために西村茂樹に相談し、呼びかけを開始した。
 福沢諭吉を会長に推すが福澤は固辞、森が初代会長に就任した。最初の定員は10名。西周、津田真道、中村正直、加藤弘之、箕作秋坪、杉亨二、箕作麟祥で創立された。
 明六社という名称の由来は、明治六年結成にあることは言うまでもない。会合は毎月1日と16日に開かれた。会員には旧幕府官僚、開成所(文久3年(1863年)に設置された江戸幕府の洋学教育研究機関。蕃書調所が、洋書調所と改称され、また改組されたもの。東京大学、東京外国語大学の源流機関の一つ)の関係者、慶應義塾門下生など官民混成であり、また学識者のみでなく旧大名、浄土真宗本願寺派、日本銀行、新聞関係者、勝海舟ら旧士族など、錚々たるメンバーが参加した。
 ここまでで定員、会員と出てきたが、「会員」は「定員」「通信員」「名誉員」「格外員」と分けられていた。

 社を設立するの趣旨は、我国の教育を進めんがために有志の徒会同して、その手段を商議するにあり。また、同志集会して異見を公刊し、知を広め識を明にするにあり。( 明六社制規第1条、明治7年2月)

 聞きなれない「制規」は、いまの言葉だと「規約」だろう。
 明治6年設立で、規約が7年成立は遅すぎるという気がするが、それまでは暫定の規約でやっていて、改定が続き、定まったのが7年ということなのだろう。
『明六雑誌』は 明六社の機関誌であり、明治7年(1874年)4月創刊だから、それまでは実質準備期間だったとも考えられる。そのくらいの準備期間が必要とされる状況だろうし、そのくらいの期間の議論が必要そうなメンバーでもあるとも思える。
 ところが、『明六雑誌』は約一年半後の明治8年(1875年)11月停刊。全43号。雑誌掲載論文数は156編。いずれも明治初期の時代精神を反映、あるいは先導した論考である。発行部数は月平均3200部に達したというから、商業的にも成功したと考えていい。
 廃刊は、明治8年、太政官政府の讒謗律、新聞紙条例が施行されたことによる。廃刊に追い込まれ、明六社自体も事実上解散となった。後に明六社は明六会となり、福澤諭吉を初代会長とする東京学士会院、帝国学士院を経て、日本学士院と展開していく源流ともなった。
『明六雑誌』に登場し、現代まで残った語彙のうち代表的なものを以下に列挙する。

科学、農学、洋学、洋風、珪素、砒素、電磁、冤罪、検事、議会、領事、領事館、圧政、学制、原価、資金、外債、社交、社用、官権、広告、痴呆、熱心、保健、確保、確立、過食、玩具、現象、工場、申告

華英・英華の辞書0502

 福澤諭吉が万延元年遣米使節の軍艦奉行・木村摂津守の従者として咸臨丸に乗り、サンフランシスコに渡ったことは『シェアハウス・ロック0426』(「福澤諭吉」の項)でお話しした。このときに諭吉は、『ウェブスター大辞書』の簡易版と『華英通語』を購入したこともお話しした。
『華英通語』に、福澤自身が英語の発音と中国語の訳語の日本語読みをカタカナで加えたものが『増訂華英通語』である。これは、諭吉が初めて出版した本であり、万延元年刊だ。福澤クン、だいぶヤッツケだね。
 これは、慶應義塾大学メディアセンターのホームページで見ることができる。
https://dcollections.lib.keio.ac.jp/ja/fukuzawa/a01/1)
 ヤッツケと言えば、32ページのごく簡単な内容の『日米会話手帳』は、玉音放送から一か月後に発売され、総計360万部以上発行されたというミリオンセラーである。英語、ヤッツケ、敗戦(黒船)と、なんだか三題噺めいているな。あたりまえだが、戦後に企画発行された出版物の第一号とされている。
 上記、『ウェブスター大辞書』は英英辞典だろうけど、『華英通語』のようなものは、これ以外にもいっぱいあったに違いない。
 有名どころでは、宣教師ロバート・モリソンの『華英・英華字典』がある。1815年から1822年にかけて刊行され、三部(全六巻)の大著である。第一部が画引き華英字典、第二部発音引きの華英字典、第三部が英華字典である。おのおのが上下巻になっている。ちなみに、1815年は、文化12年である。
『華英・英華字典』各部冒頭には、東インド会社が出版費用を全額負担してくれたことへの謝辞が記されているという。編纂途中でモリソンの解職が決議されたという記述も、モリソン夫人の手記にみられるという。
 これは、1996年10月に復刻出版されているので、大きめの図書館なら見られるかもしれない。
 W.ロブシャイド『英華字典』。四部四冊というのしかわかっていない。原本ももうないようで、書名だけが残っているのかもしれない。
 ハーバート・アレン・ジャイルズ(イギリスの外交官、中国学者)の手になる『華英辞書』(1892年刊)。
 ウォルター・ヘンリー・メドハーストの『英華字典』。メドハーストは、上海に入った最初の宣教師であり、また中国語訳聖書の翻訳・改訂・出版に尽力した。日本では『英和・和英語彙』(1830年刊)の著者として知られる。これは、1857年(安政4年)に村上英俊らにより『英語箋』の名で翻刻出版されている。

『哲学字彙』0503

『哲学字彙』は、明治14年(1881年)初版の学術用語集である。編者は、井上哲次郎を中心に、和田垣謙三、国府寺新作、有賀長雄の四人。匿名の協力者も多数いたようだ。
 いままで、「近代日本語をつくった人々」シリーズで紹介してきたように、乱立、混乱していた「発明語」「和製漢語」「新造語」「漢訳語」の統一を画するために編纂されたものである。
『シェアハウス・ロック0418』(「渡辺崋山」の項)で、高野長英のセリフとして「青地林宗が、同士会を起して、オランダ書の翻訳が出たら、正確であるかどうか、各種の術語が訳者ごとにちがっているのを適正なことばに統一しようと提唱した」ことが出てきたが、「発明語」がある閾値を超えると、どうしてもこういう欲求が自然と生まれるのだろう。
 書名に「哲学」とあるが、哲学に限らず人文科学、社会科学、自然科学全般の用語に及び、語彙総数は、初版で1952語である。
 初版は、東京大学から刊行された。
『哲学字彙』の編纂作業の土台になったのは、19世紀イギリスの哲学者ウィリアム・フレミングの『哲学字典(Vocabulary of philosophy, mental, moral, and metaphysical)』(初版1857年)。これの見出し語をベースに、同書に載っていない見出し語も加えられた。
「近代日本語をつくった人々」に思い当ってすぐに『哲学字彙』に行き当たれば、もっと楽に全容がつかめたのかもしれないが、おかげさまで無知だったため、右往左往することになり、右往も左往もなかなか楽しいことになった。私はね。付き合わされた皆さんは、いい迷惑だったかもしれない。ごめんね。
 明治17年(1884年)に『改訂増補 哲学字彙』が東洋館から刊行された。これは、初版が売り切れたからである。評判がよかったんだろうね。
 明治45年(1912年)1月には、井上哲次郎、中島力造、元良勇次郎の三人により、『改訂増補 哲学字彙』のさらに「改訂増補」たる『英独仏和 哲学字彙』が丸善から刊行された。この『英独仏和 哲学字彙』は、大正10年(1921年)に重版されている。『英独仏和 哲学字彙』で語彙数は2723語。
『哲学字彙』は以上のような変遷を経ているが、同書は、近代日本語成立史、漢訳語史全般の重要史料である。
 また、本書が要因となり「哲学」「科学」「形而上学」などの分野が定立し、それぞれの分野の「サブ用語」も充実し、一方、普遍、意志、絶対、契約などの一般的な語彙としても普及していった。
 その影響は、日本語だけでなく中国語、朝鮮語などにも及んでいる。このことは、「近代日本語をつくった人々」の初めのほうでもお話しした。

自然0504

 自然という言葉は、なかなかに手ごわい。
 どう手ごわいかを簡単に言えば、翻訳語以前から「自然(じねん)」という言葉があり、nature、もしくはそれに対応するオランダ語、フランス語の翻訳語としても、「自然(しぜん)」が選ばれてきたという経緯があるからだ。さらに事情を複雑にしているのは、「自然(じねん)」「自然(しぜん)」が意味的に多くの部分が重なっているからだ。
 自然(しぜん)は英語で言うとnatureであるが、これは人為と対立する言葉だ。つまり、
     nature ←→ art
というように対立概念になっており、これを単純に日本語にすると、
     自然 ←→ 人工
ということになる。だが、artには、「美術」「芸術」「工芸」「技術」等々という意味もあり、「自然」との対立概念を素直にとると、おそらく前述のように「人為」というところに落ち着くことになるのだろう。ここまでで、相当語義が錯綜していることをご理解いただけると思う。
「自然(じねん)」のほうは、「おのずと」「おのずから」という意味だ。
「自然選択」という言葉がある。これは、進化論の中心概念と言っていい。だが、ダーウィンを読むと「自然(主体)が選択する」と考えるよりも、「おのずと選択されてしまう」「おのずから選択される」と解釈するほうがしっくりくるような気がする。
 このあたりも、「自然」という語義のエアポケットに入ってしまった気がすることである。だが、これは「自然」に関する特殊事情であると思う。次に申しあげることは「一般事情」である。
 対立語であるartも「自然」同様手ごわい。私が、リベラルアーツがよくわからないのは、リベラルではなく、アーツがわからないところに原因があるのかもしれない。
 同様に、dealも手ごわい。ただ、art、dealの手ごわさは、言語一般、翻訳一般の手ごわさである。
 辞書によると、dealは、①分配する。配る ②与える。加える などとなっており、名詞だと①分量、程度 ②札の一配り ③取引 ④政策 などと出て来て、なんのことだかよくわからない。
 アメリカの映画のなかで、泥棒が相棒と取り分を巡ってああだこうだ言い合った後、「deal?」と言えば「その取り分でいいな?」ということで、名詞の③である。だが、カジノでディーラーと言えば、名詞の②をやる人であり、Newが付けば、名詞の④であり、ルーズベルトが進めたもののことになる。基礎理論をつくったのはケインズだ。
 言語一般の手ごわさと言っても、読んでてもよくわからないだろうけど、書いてる私もいまいちよくわかっていない。でも、もともと、言葉と意味とはそれほどしっくりいっている間柄ではない。ある言語学者は、「言語学は意味を扱わない」と言っているし、たぶんそいつの親分のソシュールは、シニフィアンとシニフィエという概念を用いて、言語記号の音声(形態)とその意味との間には必然的な関係性はないと言っている。これは、言語記号と意味との恣意性を説いていることになる。平ったく言うと、意味という「枠」に対して、言語という「もの」は、いつも多少小さく、はめ込むとカタカタいっている。あるいは大きすぎ、ぴったりはまらない。だから、何回か申しあげている一対一関係は、言語、意味の双方から見て、幸せな関係なのである。
 もう一度言うと、もともと、言葉と意味とはそれほどしっくりいっている間柄ではないのである。

英語がひとつで訳語がいっぱい0505

前回は、後半でとんでもないことまで言ってしまった。今回は、本来の「近代日本語をつくった人々」シリーズに近いことを申しあげる。まあ、前回のトンデモは、今回のお話のマクラだと思っていただければありがたい。
 まず、マクラの続きから。
 そもそも、「言語記号の音声(形態)とその意味との間には必然的な関係性はない」わけだから、言語A―意味―言語Bが、そんなにすっきりいくはずがない。当然、逆の言語B―意味―言語Aもすっきりはいかない。よって、たとえば、orderなどという言葉をやみくもに翻訳しようとすると、辞書には順序、整頓、秩序、整列、常態、道理、条理、体制、命令、注文などと出て来て、なんとなくこれらの大元としては「秩序」なのかなという気はするが、いずれにしても「場」がはっきりしないことには、どれなのかはわかるはずがない。
 このことは、たとえばdevelopmentでも言えることだ。
 ただ、developmentを辞書で引くと、なんとなく「前向き」「向上」という雰囲気があることはわかり、訳語としては発達、成長、発育、開発などというのが対応している。ここで注目すべきなのは、展開(数学)、現像(写真)などという訳が載っていることで、(数学)(写真)は「この分野では」という意味だ。「用語」という言葉を続けてもいい。数学用語、写真用語ということである。写真用語はあまり耳慣れないけど、あることはある。
 こんなことを考えはじめたのは、実はfrequencyという言葉を知ったことから始まる。対応する日本語は、度数(統計)、振動数(物理)、周波数(電気工学)である。もとがfrequencyなのに、訳語は互いにあまり似ていない。ただ、度数の裏には「頻度」があるし、振動数、周波数の裏には波形がある。もっと先には、「繰り返す繰り返し方の様相」とでもいったものがある。
 本当かどうかわからないが、私はfrequencyが度数(統計)、振動数(物理)、周波数(電気工学)となったのは、使われる分野が定まったことにより、言葉が、前にちらっとお話しした「幸せな一対一関係」にはいれたということなのではないだろうかと考えた。もうひとつ、これらの分野の定立と、言葉(frequency)の輸入がほぼ同時だったのではないかと考えた。
 これは、operationにも言える。operationは、手術(医学)、演算(数学)、作戦(軍隊)、価格操作(株式)である。「幸せな一対一関係」は、他にもあるのかもしれないが、残念ながら私は知らない。
 だが、operationには「不幸な面」もあり、それは一般用語としても用いられていることによるのだろう。一般的には、働き、作用、運転、操作、運営、行動、経営等々であり、これもただoperationと言われただけではよくわからず、日本語で言うと「ソレをアレする」の「アレ」に近い感じがする。
 同様に、systemも「幸不幸」が相半ばする。まず、systemで一番幸せな例を言うと、solar system。太陽光発電システムじゃないぞ。キッパリ、太陽系のことだ。消化器系、分泌系などの「系」もsystemである。ただ、制度(政治)(経済)(法律)になると、若干不幸になってくる。政治、経済、法律は、天文、医学などに比べ、感覚的に「一般」に近くなるからだと思う。もっと「一般」は組織、主義、学説、方式、方法、手順、規律等々もっと「不幸」になり、「アレ化」してくる。
『シェアハウス・ロック0420』(「コンピュータ語/カタカナ語」の項)でお話ししたOS(operating system、オペレーティングシステム)は、「基本ソフト」というわかったようなわからない訳語を与えられたままだが、Wikiでは「コンピュータのオペレーション(操作・運用・運転)を司るシステムソフトウェアである」と、いまだに「不幸」なままだ。

【Live】飲み会 in シェアハウス0506

 先週の金曜日は、前に何回か出て来た四谷のライブバー「461」(夫妻)が、我がシェアハウスに遊びに来た。
 出迎え後、まず京王堀之内駅の南方2㎞ほどのところにある長池公園に、「見附橋」なるものを見に行った。これは、四谷見附にある橋(いまもある!)を改築するときに、その半分ほどをこの公園に移築したものである。それで、「見附橋」だ。私らがこっちに移住してきて割合すぐにそこへ行き、「こんな山のなかで、なんで『見附』か」と不思議に思ったものだったが、そういうことだったのであった。461(夫妻)は、当然元の橋を知っているはずだから、それをお見せし、そこから散歩を始めたわけである。
 見附橋から「せせらぎ緑道」なる小道を、1.5㎞ほど歩く。この道は、清流と言ってもそれほど恥ずかしくない小川に沿っている。長池公園の上のほうにある湧き水がその源流だ。
 午後1時ごろに、近所のスーパー経由で我がシェアハウスに到着。そのスーパーは中国料理が素晴らしく、我がシェアハウスのおばさんは当然そのシェフを手なづけているので、彼の営業時間前に受け取りに行ったわけである。
 このシェフは本当に名人だ。スーパーで売っているので、当然冷めた状態で食べることになる。それもきっちり計算に入れてつくるので、当然、冷めてもうまい。名人というのは、こういうものである。
 料理は、エビチリ、牛ランプの炒め物、春雨サラダの3品。
 ここからは宴会である。我がシェアハウスのおじさんも参加。
 461(夫)は、食道からうえのがんをいろいろとやっているので、禁酒をしている。だから、ノンアルコールビールを種々用意しておいた。
 シェフの料理は、当然好評。
 私の担当料理は、ベーコンとほうれん草の炒め物、〆の豆苗炒飯。前者は、具材と塩、オイスターソース、カイエンペッパーのみ。油は、オリーブ油とゴマ油を半々。後者は、具材はピーナッツ(砕いたもの)と豆苗のみ。油は同様だが、ナンプラー、乾燥パクチー(コリアンダー)、カイエンペッパー、塩少々。塩少々は、ナンプラーだけで塩味をまかなおうとすると、少々くどくなるためである。隠し味に、豆板醤とオイスターソースを少々。
 どちらも好評。461(妻)は豆苗炒飯を「オッシャレ―!」と評してくれ、お替りまでした。やったね。
 料理、酒(日本酒多種)もさることながら、最大のおもてなしは、メダカの諸君が担当した。461(夫妻)は、我がメダカ諸君の里親でもあるのだ。里親先ではまだ卵を産んでいないというので、お腹に卵を抱えている連中、孵化したばかりの連中(50匹近くいる)、まだ孵化していない卵(別の発泡スチロールに分けてある)の付いているホテイアオイを見せた。
 これらでその気になったらしく、その場で、ネットで睡蓮鉢を注文していた。届けてくれて、7,000円。安いと思う。

『翻訳語成立事情』0507

 表題は、『翻訳語成立事情』(柳父章、岩波新書)のことである。つい最近、古本市の3冊100円コーナーで発見したものだ。まだ、きちんと読んでいない。きちんと読んでいないものの、この本も、近代日本語の成立を考えることになってからすぐに読みたかった本であると思った。『哲学字彙』と同様である。
 ちゃんと読んでいないので、とりあえず目次を紹介する。
 
1 社会 societyを持たない人々の翻訳法
2 個人 福澤諭吉の苦闘
3 近代 地獄の「近代」、あこがれの「近代」
4 美 三島由紀夫のレトリック
5 恋愛 北村透谷と「恋愛」の宿命
6 存在 存在する、ある、いる
7 自然 翻訳語の生んだ誤解
8 権利 権利の「権」、権力の「権」
9 自由 柳田国男の反発
10 彼、彼女 物から人へ、恋人へ

『シェハウス・ロック0406』(「近代日本語に着目した理由」の項)から、全部は読んでいただけないまでも、きれぎれに読んでいただけていれば、この目次だけでどういう本だか想像はできると思う。
 それと、パラパラと読んでいて、次の文章が目にとまった。

 一般の常識とは相反するように思われるかもしれないが、「近代」ということばのある用例について、その意味はmodernと同じである、などと私は考えない。少なくとも無条件にそういう前提をとらない。「近代」とmodernとは、ことばの形が違っているからである。とくに、翻訳とその原語との間で、この態度は重要である。
 もう一つ、ことばの意味を考えるとき、語源というような問題を(私は)あまり重視しない。それよりも、一つの時代における、一つの言語体系における、広い意味での文脈上の働きを中心に考えていきたい。
 以上きわめて簡単に、私の具体的な方法の要点を述べた。それは一口に言って、構造主義的な方法である、と言うこともできるであろう(p.49「3 近代」より。(私は)は、原文にはない)。

 以下は、単なる年金生活者の爺さんとしては僭越至極な発言だが、上の文章は、私が小学4年生のときに感じた言語と意味の不幸な関係と、それでも、あやふやな意味を基に言葉を使い、そうやっているうちに、糸みたいなものが張り巡らされ、いつのまにか出来上がったそのネットのようなものに乗って、いつしか言葉も使えるようになり、意味も扱えるようになっていくのではないかと感じたことを、もうちょっときちんとした言葉で説明してくれたと思われる。 
 最後に、「近代日本語をつくった人々」シリーズで、私は無知なもので、「発明語」「和製漢語」「新造語」「漢訳語」などと呼んできたが、柳父章さんは、きっぱりと「翻訳語」と言っておられる。
 今回で、「近代日本語をつくった人々」シリーズはとりあえず終了。また、ネタがたまったらお話しすると思う。
 次の暇ネタシリーズは、「私が初めて買ったレコード」シリーズになる。

初めて買ったレコード0508

 私が生まれて初めて買ったレコードは、ハリー・べラフォンテのカーネギーホール・コンサート(1959年)の抜粋版『ダニーボーイ』だ。シングル盤。小学4年のときである。これはミラード・トーマスのギターだけで始まる。
 その『ダニーボーイ』が素晴らしかったので、それからはレコード店に頻繁に出入りし、カッタウェイ盤でカーネギーホール・コンサートの他の曲目のシングル盤を買いあさった。カッタウェイ盤というのは、ようするに再販崩れで(いまは知らないけれど、レコードは再販品だった)、当時普通のシングル盤が330円だったところを150円で買えた。ジャケットの隅に、パンチで穴があけられていて、これが「再販崩れですよ」という印だったのだろう。150円とは安いねとお思いかもしれないが、当時、『少年サンデー』『少年マガジン』が30円だからね。下町(というか場末)の貧乏人の小倅には結構な金額である。
 そうやって揃えていき、あと2、3曲でカーネギーホール・コンサートの全曲が揃うようにまでなったわけである。その2、3曲のうち『親切な神様』というのはいまでもおぼえているし、あとの残りの曲も、カーネギーホール・コンサートのアルバムを見れば思い出せるはずである。それだけ、この「欠け」がくやしかった。
 この「欠け」を埋めるには、LP盤を買うしかない。ところが、カーネギーホール・コンサートのLP盤は1500円(ステレオ盤だと1800円。ステレオとモノラルで値段が違っていた。まあ、時代というものだろう)で、しかも上下2枚なので、下町の少年のお小遣いではとても手が出ない。大卒初任給が8000円くらい、アパートの部屋が一畳千円という「高額」になったと新聞に出た時代だ。
 で私は、「いつか功成り名を遂げて、お金持ちになり、カーネギーホール・コンサートのLPを2枚買うんだ」と心に誓ったわけである。それが60年代初頭。
 月日は容赦なく過ぎてゆく。で、約20年後、86年の吉日、土曜日に会社に出て、その割りに仕事はすんなり終わって、せっかく東京まで出てきたのだから、真っ直ぐ帰るのもなんだなあと思いながら会社から出て歩いていたら、すぐ近くのバス停にちょうどバスが来たのでなんとなく乗ってしまい、銀座を通ったのでなんとなく降りてしまい、なんとなく数寄屋橋デパートの2階のハンター(中古レコード店)に行ったら、なんとカーネギーホール・コンサート2枚組みが1200円かなんかで売っていたのである。
 当然買ったが、うれしいのと、もうひとつ、「おれの生涯の望みは1200円だったのか」という落胆とで、悲喜こもごもだった。
【追記1】
 話題にしたカーネギーホール・コンサートのライブ盤は、いま「伝説のライブ」とうたわれ、アナログ盤で復刻されて、限定発売されている。約一万円。
【追記2】
 これを書いた本日(5月6日)、『毎日新聞(余禄)』に、次のジョークが出ていた。
 ある人が、「カーネギーホールには、どうやったら行けますか」と聞いた。聞かれた人はたまたまピアニストで、「練習、練習、練習です」と答えたという。カーネギーホールは、それほど格式が高いところなのである。

ハリー・べラフォンテは私の先生だった0509

 ベラフォンテという人は、私にとって、即座に音楽の先生になったわけだが、当然英語の先生にもなり、また、人文科学系の先生にもなった。
 最後のひとつがわからないと思う。『ダニーボーイ』は戦争で死んだ我が子を悼む歌であり、これはどの戦争のことかと思ったわけだ。当時はインターネットなんかなかったので調べるのも大変だったが、どうもダニーくんは外国に行った様子もないし、英国史を調べて「薔薇戦争」じゃないかと見当をつけたり、歌詞中の「the pipes are calling」のパイプがバグパイプじゃないかと見当をつけたり、結構楽しく、そんなことをやっていたわけである。
 あるいは、べラフォンテは、ニューヨーク生まれ、ジャマイカ育ちなので、ジャマイカの歴史を調べたりした。公民権運動なるものもベラフォンテ経由で知った。
 当時、音楽の情報が少なかったので、ライナーノーツは貴重な情報源だった。中村とうようさんが、よくベラフォンテのレコードのライナーノーツを書いていた。
 余談だが、ボブ・ディランというチンピラ(笑)も、私はベラフォンテのレコードで初めて知った。『ミッドナイト・スペシャル』というアルバムのA面最初の曲が同名曲で、そこで、若きディランは、ハーモニカを吹いている(これがうまい!)。
 そのアルバムのライナーノーツでは、中村とうようさんが、お笑いなことに、「ハーモニカを吹いている人は、ボブ・デュラン(デュランだぜ)という人で私は知らないが…」などと世迷い言を書いている。知らないということは恐ろしい。
 で、後年、「USA for Africa」というイベントというか、ムーブメントというかがあった。アフリカの飢餓を救えということで、マイケル・ジャクソン、クィンシー・ジョーンズなんかが呼びかけ人になって、そうそうたるメンバーが顔を合わせて歌を歌っているが(youtubeで見られる)、こういうのが嫌いなはずのボブ・ディランも参加して、歌っている。後ろには、なんと、コーラス隊の一人として、ハリー・ベラフォンテ先生がいらっしゃる。
 で、ここからは空想というか、妄想なのだが、出演を渋るディランに、ベラフォンテ先生がですなあ、脅しをかけたのじゃないか。
「おまえ、食えないときに、おれのアルバムでハモニカ吹かしてやったよなあ。20ドルやったよなあ。そのとき、おまえ、涙を浮かべて、『先生がおっしゃるなら、なんでもやります』って言ったよなあ。いま、やってもらおか」とまあ、(最後が関西弁になるのがよくわからないが)言ったのではないかと想像したりして楽しんでいるわけである。

『ダニーボーイ』について、私が知っている2、3のこと0510

『ダニーボーイ』は、もともとはアイルランド民謡の『ロンドンデリー・エア』である。イアン・マッコ―マックという戦前の名テナーが歌詞を替えて歌い、世界中に知れ渡ったものであると、これもどこかのライナーノーツで読んだ記憶がある。記憶と言っても、60年前の記憶だ。
 で、あてにならないのでネットで確かめたところ、どうも「イアン」は記憶違いで、「ジョン・マコーマック」のことらしい。「マッコーマック」と「マコーマック」は、つづりは一緒だから、まあアタリだね。『ダニーボーイ』の来歴も、どうもそんなに単純なものではないようである。たくさんの歌詞があり、讃美歌にも取り入れられているようだ。つまり、それだけいい曲なのである。
 もうひとつは、『ヨーロッパ退屈日記』(伊丹十三)に出てくるいい話だ。
 アイルランドでも禁酒法が施行されていたことがあり、アイルランドの旅館に併設されているパブなどでは、こんな法律が施行されても、まったくお構いなしに酒が供されていたという。ここがまず、とてもいい。
 そこで男たちが当然、夜、酒を飲んでいると、遠くのほうから、『ダニーボーイ』の朗々とした歌声が聴こえてくる。それが近づくと、男たちは、卓上の酒を隠す。ほどなくして、重々しいノックが聴こえ、ドアが開けられ、村でたった一人の警官が顔を出し、「まさかとは思いますが、酒などを供してはいないでしょうな」と言いながらパブを一回りし、「よろしい。結構、結構」と言い、戸口を出ると同時に、また『ダニーボーイ』を朗々と歌いながら去っていく。次のパブへと向かうのだろう。男たちは、歌声が遠ざかると、また卓に酒を出し、飲み始める。これが「いい」のとどめである。
 この話の締めに、伊丹十三は、「民度が高いというのはこういうことだ」という意味のことを書いていたと思う。
 これを読んだのは50年前のことなので、ここも記憶違いで『ヨーロッパ退屈日記』ではなく、別の著書中だったかもしれない。だが、伊丹十三の著書であったことは間違いない。そのころは、十三ではなく「一三」と名乗っていたはずだ。「ひふみ」と憶えているが、「かずみ」「いちぞう」かもしれないね。
 伊丹十三は映画の名監督伊丹万作の息子さんで、少しは父親に近づけたと思うとして、後年一桁繰りあげたと聞いたことがある。
 同書中には書かれてなかったと思うが、この話は、ピーター・オトゥールに聞いた話ではないかと、私はにらんでいる。『ヨーロッパ退屈日記』中に、当時、差別されていた東洋人の一人である伊丹十三に、とても親切に接してくれたのが、ピーター・オトゥールであったと出てくるのである。
 ピーター・オトゥールはアイルランド人である。やはり、差別には敏感だったのではないか。もうひとつ、上の『ダニーボーイ』ネタは、アイルランド自慢ネタであることも、出どこ=ピーター・オトゥール説を裏付けるような気がする。
 もうひとつ、『ヨーロッパ退屈日記』は、『北京の55日』の撮影中の話がメインである。同映画を見ると、柴五郎中佐役の伊丹十三の出番はあんまりないので、「退屈」するのも無理はないと思われる。
『北京の55日』で、もうひとつ憶えていることがある。セットをつくる際、何人もの書家が動員され、雅俗の書体を書き分けたという話だ。雅は、例えば紫禁城などにある額などで、俗は食い物屋の看板などである。アメリカ映画でこれをやるなどは、なかなかあなどれないところだ。

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