シェアハウス・ロック2309前半投稿分

【Live】関東大震災の日0901

 2年ほど前、映画監督の森達也さんにメールを出した。
 森さんが、関東大震災時の朝鮮人虐殺に関する映画を準備しておられ、「なにかこのことにまつわるエピソードがあればお知らせください」と呼びかけているのを週刊誌で読んだからである。私は、森さん関係のHPを探し、「ここなら届くはず」と思ったアドレスにメールを出した。以下に、若干省略して紹介する。

森達也さま

 公開されている記録等々にあたっておられることと存じますが、たぶん、どこにも出ていないエピソードをお伝えしたいと思い、メールしました。
 そのエピソードは、私の母方の祖父が主人公です。私の母は大正6年生まれですので、その父親は、おそらく明治20年あたりの生まれと思われます。
 震災当時、祖父の家は、江戸川区篠崎にありました。当時は、東京府下南葛飾郡です。祖父は、竹細工の職人で、籠、笊などをつくっておりました。そのころは、東京とは言っても相当の田舎だったはずです。
 納屋のあたりで人の気配がしたのに気がついた祖父は、様子を見に行きました。はたしてそこには朝鮮人の家族がおり、「匿ってくれ」と懇願するので、祖父は「わかった。いていいし、おれは誰にも言わない。ただし、人に知られておまえらが捕まっても、おれは知らなかったと言うぞ。いいな」と言ったそうです。
 こういう日本人もいたのです。それが私の祖父というのは、ちょっとホッとする話です。
 虐殺が激しかった亀戸から篠崎は、10キロもないくらいですので、彼らはその方面から逃げてきたのかもしれません。母の旧姓は「金子」ですから、もしかしたら、表札を見て「同胞」と思い、納屋に忍び込んだものなのかもしれません。
 それと、時代は下りますが、小松川女子高校生殺しの李珍宇(日本名は金子でした)がいた集落もそばにありましたので、そこの誰やらを訪ねる途中だったのかもしれません。ただし、その集落が関東大震災時にあったのかは、私にはわかりません。
 以上、頼りない話で恐縮ですが、おそらくどこにも出ていないエピソードとして、お伝えいたしました。

 森さんからは、とても丁寧なお返事をいただいた。
 残念だが、私のお知らせしたエピソードは使われず、森さんは現在の野田市で、香川県の被差別部落から来た薬の行商人一行が、朝鮮人と間違えられて殺された事件を取りあげ、映画にした。
 毎日新聞8月29日夕刊(小国綾子さんの記事)で知ったのだが、森さんは記者会見で、「加害者を単なるモンスターにしたくなかった。人間は善良なままでも残虐になれる」と語ったという。
「善良」とはなにかを考えさせられる、重い言葉だ。もう半歩進めば、親鸞の「悪人正機」説になるのではないかと思う。
 この事件を扱った映画『福田村事件』は、本日から全国公開される。

【Live】メダカの大量死0902

 8月に30度超えが何日も続き、37、8度などというとんでもない暑さの日もあったあたりで、メダカが大量に死んでしまった。
 メダカはベランダで飼っている。鉢はふたつあり、ひとつはいただきものの立派な睡蓮鉢(直径が60cmを超える)、もうひとつは火鉢を廃物利用したものだ。
 火鉢は縁が内側に少し曲がり、睡蓮鉢は開いている。些少な違いに過ぎないが、これだけでも、じつは日当たりが相当に違う。睡蓮鉢は水を取り替えて1週間くらいで植物性プランクトンの繁殖で緑色になる。火鉢のほうでは2週間くらいだ。
 メダカが20匹ほど死んでしまったのは睡蓮鉢ほうだ。かわいそうなことをした。
 どちらも陶製なので、多少は水がしみ込み、それが蒸発するときに気化熱が奪われ、若干温度が下がる。夜は放射熱が奪われ、朝には多少温度が下がっている。去年まではまったく問題がなかったが、この夏の酷暑で熱が蓄積し、限界を超えてしまったのだろう。
 魚は40度弱くらいが限界だそうだ。そのくらいの温度になるとアンモニアの代謝が間に合わなくなるとか、そういったことなのだろう。
 よく、ペットセラピーということを言う。簡単に言うと、ペットに癒されるということだが、まあセラピーと言える程度の効果があるということなのだろう。メダカは、犬や猫みたいに意思が伝わる気がしないし、セラピー効果などないと思われるかもしれないが、そうでもない。
 メダカを飼っていて、私がもっとも癒されると感じるのは、産卵→孵化の時期である。「おまえらよくそんなんで生きているな」というくらいの、幼魚というよりもプランクトンに近いようなのを見るとき、一番癒される気がする。
 私はこの感じを、ライフセラピーと名付けた。生命が生命に癒される。考えてみれば、当然のような気もする。
 事故の日から、日中は鉢のうえに葦簀をかけ、少しでも日光の影響を減らそうとし、夜が更けたら少しでも熱を放散させようと、葦簀を外している。ベランダの植物にやる水は鉢の水を使い、減った分、冷たい水を補充している。それからは犠牲者は出ていない。
 平穏無事な我がシェアハウスでは、本当は、メダカの大量死は大事件であり、すぐさま報告すべき事案なのだが、本編の切りのいいところまで待ったわけである。

37.子ども社会の崩壊0903

 私が6年生になったときには、この素晴らしき子ども社会は、もう既に崩壊していたといっていい。だから残念ながら、私は、タダシちゃんやイナガキくんの役割を果すことはなかった。
 当時は、私がタダシちゃんやイナガキくんのようなよきリーダーにはなれなかったのを、私が至らなかったせいだと考えていたが(実際そうかもしれないが)、それよりも外圧、大人社会が用意した外圧のせいなのではないかと、このごろでは考えるようになった。
 それを考察する(大げさだなあ)前に、この素晴らしき子ども社会がそのままスライドし、高度成長社会を招来したのではないかという、やや乱暴な仮説を先に言っておきたい。
 では、外圧とはなにか。
① 子ども社会のフィールド(文字通り「場所」)がなくなった
 つまり、自動車が増え、道路で遊べなくなった。公園で遊べば同じことだろうと思われるかもしれないが、そこには遊具、花壇などがあり、すなわち大人社会の管理が浸潤している。これが、輝かしき子ども社会の枷となる。
② テレビの出現
 これは大きな出来事だった。子どもが子ども同士で遊ぶのではなく、テレビに遊んでもらうことをおぼえてしまった。いきおい、遊びは個別化し、子ども同士は分断された。また、同学年同士でつるむようになり、遊びのなかの重要な要素、いたわり、いたわられという徳目も失うことになった。
③ 社会が豊かになった
 社会が豊かになり、親の監督が密になった。私が育った地域だけだったのかもしれないが、「飯さえ食わしとけば子どもは勝手に育つ」といった、乱暴ではあるが、一種の美風が失われた。
 だから、私が繰言のように申し上げている輝かしき子ども社会は、そんなに長い期間あったものではなかったのかもしれない。

38.① 子ども社会のフィールドがなくなった0904

 我が親分、タダシちゃんが社会科の宿題(おそらく)を出された。
 
 曰く、「改正道路を通る車の車種を調査せよ」。

 改正道路は、現在では蔵前通りと呼ばれている。私が17歳のころに蔵前通りは全線開通したのだが、それまでは千葉の方角から来ると行き止まり。右(北)に向う通りは奥戸というところに通じるものの、道路幅は半分になり、もう一方は完全に行き止まり、という中途半端なものだった。
 ただそれでも、改正道路は私らの地域では一番大きな通りであった。
 宿題をやっつけるべく、我が親分タダシちゃんは画板に紙を挟み、改正道路の交差点角に陣取った。家来の私も、当然随行する。ああ、親分に対しては「家来」であった。「子分」じゃなかったな。
 それで、一時間ばかり、画板に挟んだ紙に「トラック、乗用車、バス」等々とアイテムを書き出したところに「正」の字を書いていったのだが、記憶では、トータル200台足らずであった。一時間で、だよ。
 いまとなっては信じられないのだが、実際にそんなものだったのだろう。
 このとき、私は学齢前なのだが、それから5、6年後、私が小学4年生になったとき、担任の山本静香先生は、「日本は国土が狭い。しかも、国土に高低差がかなりある。よって、日本では自動車は普及しない」と教えてくれた。当時は私、チビだったし、バカだったので山本先生のおっしゃることを信じたが、でも、いま考えると前提(国土が狭い、高低差がある)は正しいが、それが自動車が普及しないのにはつながらないよなあ。実際に普及してるし。
 これは、山本先生のご意見だったのか、あるいは文部省の指導によるものか、ちょっと調べてみたくなった。
 話を戻して、私たちのフィールドが保持されていたのは、ほんの数年の間だったのだろう。
 これも、調べてみたい。こんな文章を書くメリットのひとつは、私にとっては、調べてみたいことを忘れないところだ。書いとかないと、確実に忘れるもんなあ。

39.② テレビの出現0905

 マルクス主義者の言うところの階級を私が意識したはじめは、私の子ども時代であり、階級の境目は、「家にテレビがあるかないか」であった。とは言っても、それは昭和30年代前半くらいまでのことである。そのころまでは金持ちじゃないとテレビは買えなかったが、30年代中盤くらいからは、後年で言うライフスタイル、つまり、なにを人生の大事とするかによって、「テレビが大事」と考えれば、多少貧乏でもテレビは買えるものになってきた。
 当時、日本の子どもが親に言ったセリフで一番多かったのは、おそらく「テレビ買って!」だったと思う。
 私はというと、テレビをほしいと思ったことはなかった。親から、「おまえ、本当にテレビほしくないのか?」と聞かれた子どもは、日本広しと言えども、私を含めて当時10人もいなかったのではないか。
 テレビがほしくなかった理由は、もう私は結構本を読んでいて、テレビより本のほうが面白いと思っていたからだ。
 当時、『とんま天狗』という番組があった。まあ、鞍馬天狗のパロディなんだろう。私は幸か不幸か一回も見ていない。大村昆が主演でとんま天狗を演じた。とんま天狗の本名(?)は、「姓はおろない(漢字はわからない)、名はなんこう(同)」っていうんだよ。スゴイでしょ。ご賢察のとおり、スポンサーは「オロナイン軟膏」の発売元・大塚製薬である。
 我が友、ヨコタくんはこの番組のファンだったらしく、登下校時、この番組のテーマソングを大声で歌っていた。

 とんとんとんまの天狗さん
 とんまでおセンチお人よし

 このあとのフレーズを、ヨコタくんたちは、

 握る刀は 大刀だ

と歌っていた。「握る刀は大刀だ」なんて、そんな当たり前のことを言うわけないだろう、大上段の間違いだろうと私は思った。
 この事件(笑)が、私をさらにテレビ嫌いにさせた。テレビなんか見たら、バカが感染ると思ったわけだ。やな子どもだよなあ、我ながら。
 ヨコタくんをあしざまに言っているが、実はヨコタくんはなかなかの少年で、映画『スタンド・バイ・ミー』のクリス(リヴァー・フェニックスが演じた)を彷彿させる。現実は逆で、後年、『スタンド・バイ・ミー』のクリスを見て、私は「ああ、これはヨコタくんだ」と思ったのである。つまり、ヨコタくんはクリスのようにみんなのまとめ役で、リーダーシップを発揮するなかなかの少年だったのである。
 私はと言えば、せいぜいゴーディの役どころ、もしかしたらバーンズかもしれない。

40.③ 社会が豊かになった0906

 これは、チビにはなかなかむずかしい問題である。
 私が小学校2年のときに、父親は精神病院に収監された。母親は、和服の仕立屋だった。だから、針一本で私と妹を育て、父親の医療費を稼いでいたことになる。
 仕立屋としての腕は相当によかったようだ。というのは、当初、和服仕立ての看板を掲げる前、母親は日本橋の呉服屋の下請けをやっていた。顧客の一人が、船橋聖一(小説家)であった。そこの仕事を辞め、しばらく経ってから船橋聖一の「番頭さん」(母の言)が、訪ね訪ねて母の元にやってきた。「先生が、どうも手が違うので着にくいと申しているんで」とのことで。母の腕は相当によかったのだと思う。不肖の息子としては、これはなかなか誇らしいことだ。
 だから、父親が精神病院に収監されたものの、母親のおかげで、暮らし向きは、実際はそんなには悪くなかったのかもしれない。だが、チビ助にはそれはわからない。前述した、「テレビをほしがらなかった」理由にもうひとつ付け加えれば、家が貧乏で、母に負担をかけたくないということがあったのではないか。
 長々と書いたが、申し上げたいのは、この期間「③ 社会が豊かになった」かどうかは、チビ助だった私の手に余る問題であるということである。実感としてはほとんどなにもわからないので、統計等々に頼るしかないのだが、それも、こういった地べたを這いずり回っているようなお話では、あまりいいことではない気がする。
 ただ、チビ助の実感として、ひとつだけ言えることがある。
 小学校5年のときに、母が、「おまえ、塾(学習塾)に行かないのか」と言いだしたのである。私は学校の勉強で困ったことはまったくなかったので、「行く必要はない」と言って断り、その話はそれっきりになった。ここからは推測だが、「飯さえ食わしとけば子どもは勝手に育つ」といった近隣の人々が信奉する、乱暴ではあるが一種の美風がこのあたりで若干変化したのではないか。つまり、社会が豊かになりつつあったのではないか。
 私が小学校4年生(だったと思う)のときの『週刊新潮』の記事(これは前述したボタン屋さんで読んだ)に、「大卒、高卒どっちが得か」というものがあった。大学に行くと4年間稼ぎはない。高卒で働けば、その間、給料をもらえる。それで、そういう記事が成立したのだと思うが、このあたりが、日本が豊かな社会になる分岐点だったのだろう。
 そして、それから比較的短期間で、日本社会は高度成長時代に突入することになる。

41.名前を知らないおじさん0907

 小学校3年の一学期だったと思う。
「お茶を買ってきてよ」と母親に言われ、150円渡された。
 お茶を売る店は、家の近所に2軒ほどあったが、母親がいつもお茶を買っていたのはちょっと離れたマーケットのなかの店だ。手のなかで小銭をカチャカチャいわせながら、小走りで向かった。ちょっとつまづいた拍子に閉じた手が開いてしまったのだろう、50円玉が地面に落ち、コロコロと転がり、道路脇のドブのなかへ消えた。仕方ない、家に帰って訳を話して、また50円もらおうと思い、来た道をとって返そうとした。
「小僧、どこへ行く」
 なんだか時代劇みたいな、大時代な声がかかった。見ると、ヤーさま風のおじさんだ。
「お使いに来たんだけど、お金おとしちゃったんで、またもらうと思って。イテッ」
 おじさんは風体に見合って、手が早かった。「イテッ」は頭をはたかれたからである。
「その金は、おまえが稼いだのか」
「イテッ」
「そうじゃないだろ。お父さんが稼いだんだろ」
「違います」
「なにをー」
「お母さんです。イテッ」
「おんなじことだろうが」
「おなじなんですか? イテッ」
「拾えーっ! ドブに手ェ突っ込んで拾えーっ!」
「えー、でも。イテッ、イテッ、イテテテッ。わかりました」
「あったか?」
「ありません。イテッ」
「もうちょっとこっちだと思うぞ」
「そうですか」
「どうだ。あったか?」
「ありません。イテッ」
「どけ。日が暮れる」
 おじさんはとうとう自分でドブに手を突っ込んで探し始めた。
 ほどなくして、
「あったぞ」
 当時、商店なんかの店先にはけっこう水道の蛇口があり、いまの公園のホームレス対策のような姑息なことはせず、誰でも使えるようになっていた。おじさんはそこで50円玉をきれいに洗い、ついでに自分の手も洗い、私に渡してくれた。
「なっ、あきらめなければ、なんとかなることだってあるんだ。わかったか」
「よくわかりました。ありがとうございました」
 私は、おじさんが駅の方角へ立ち去るのを、角を曲がって見えなくなるまでその場で見送った。

「子どもは地域が育てる」と言う。いまはそんなことは言わないが、80年代に入るころまではそう言ったし、事実、少なくとも私が子どものころはそうだった。
 おじさんは、もちろんひとりだったけれども、十分に「地域」だった。少し乱暴で手も早かったけど、いまに至るまで私にとって最大の教育者のひとりだったと思う。

42.名前を知ってるタダオちゃん0908

「こないだ電車乗ったらさあ」
 タダオちゃんが言った。80年代中頃のことだ。
 タダオちゃんは、私の大親友である。大が一個では足らないくらいの親友だ。
 タダオちゃんは18歳で運転免許をとり、親の経営する商店の手伝いを始め、父親が亡くなってその店を継いだ。どこへ行くのも軽のバンである。だから電車にもめったに乗らない。私は、それを知っていたので、「めずらしいこともあるものだ」と思いながら話を聞いていた。
「連結器のとこに子どもが立ってるんだよ。それで、ポップコーンかなんかの袋を持って、食ってるんだ」
 タダオちゃんも前回の「名前を知らないおじさん」同様、「ひとり地域」の人である。だが、めったに出歩かないので、世間知に欠ける傾向がある。
「だからさあ、『そんなところに立ってると危ねえぞ』って言ったんだよ。そしたら母親がなんて言ったと思う?」
 だいたい見当はつくが、私は黙っていた。
「『ほーら、おじさんに怒られたでしょ』、だぞ。そうじゃねえだろ、『危ないわよ』だろ」
「そうだな。それしかないな」
 私も同じ時期に、同様の経験があった。近所のスーパーに買い物に行ったときのことである。その入り口に小学校中学年くらいの子どもが立っていた。だから、なかに入れない。仕方がないので、私は立ち止まり、子どもがどくのを待っていた。
 母親が、子どもに声をかけた。
「そこに立っていると危ないわよ」
―なんだか、おれが危ない人みたいだなあ。「そこに立っていると邪魔よ」だろうな、フツーは。
と、私は思った。
 幾何の問題で補助線がうまく引けると、図形が違って見えてくる。お話ししているケースでの補助線は母親と子どもという線で、それが太すぎ、他のものが見えなくなってしまい、周りの人とか、世間とか、「地域」なんかも見えなくなってしまうんだろう。
 タダオちゃんは続けた。
「そしたら、電車が揺れて、そのガキ、ポップコーンをバラまいちゃったんだよ。だから、『ほら見ろ』って言ってやったんだけどさ」
「『拾えーっ! 全部拾って、全部食えーっ!』って言えばよかったな。音引き(ー)のとこで首振ると、さらに迫力が出るんだが」
 これは、名前を知らないおじさんの応用編である。
 タダオちゃんは大笑いし、
「そこまで考えが及ばなかったなあ。残念なことをした」
と総括した。
 

43.伯父貴分・マサヒロちゃん0909

 親分の兄弟は、伯父貴、あるいは叔父貴ということになる。ここまでは、やくざ映画で見た(聞いた)ことがある。だが、伯父貴分というのは聞いたことがない。表題に書いたものの、正しいのだろうか。まったく自信がない。
 なぜ、あまり聞いたことがないのだろう。それもわからない。伯父(叔父)には「分」がないのかな。まあ、書いてしまったものは仕方ない。
 我が親分・タダシちゃんとはいままで書いた以外にも珠玉のような思い出がたくさんあるのだが、そのお兄さんであるマサヒロちゃんとの思い出は一種類しかない。ラジオである。私より5歳上のタダシちゃんより、マサヒロちゃんはさらに2歳上だ。
 マサヒロちゃんは洋楽が好きだった。ラジオでひたすら洋楽を聞いていた。私が憶えているのは、「ロイ・ジェームスの電話リクエスト」「S盤アワー」くらいである。それに7歳下のチビ助が相伴した。
「こんなのわかるの?」と聞かれた記憶がある。でも、わかったんだろうなあ。フツーなら、童謡がやっとという歳である。
 だから、洋楽に関しては、私は7歳分ませていたことになる。いまでも鮮明に憶えているのは、エルヴィス・プレスリーの『ハートブレイク・ホテル』である。これは、ほぼリアルタイムで聞いている。
 エルヴィス・プレスリーの歌よりも、スコティ・ムーアのギターが凄いと思った。初めて聞いたときは鳥肌がたったくらいである。これもよく憶えている。もちろん、その時点ではスコティ・ムーアの名前なんか知らないよ、あたりまえだけど。名前を知ったのは、鳥肌がたった約30年後である。
 ただ、プレスリーがよかったのは、ファンの方々には悪いけど、軍隊に入るときまでだ。私が30歳になる前に、プレスリーは亡くなった。
 そのとき、ジョン・レノンは、「プレスリーは、軍隊に入ったときに死んだんだ」とコメントした。名言である。
 

【Live】メダカの大量死その後0910

 昨日、一昨日と、台風の影響でだいぶ涼しい。
 9月2日に、睡蓮鉢のほうのメダカが大量死してしまったことをお話ししたが、実際に死なれてしまったのは、その数日前である。
 その時点では、酷暑が原因のように書いた。そして、葦簀をかけ、それからは犠牲者が出ていないと報告した。それからしばらくは問題なかったが、ここ数日間、また数匹ずつメダカが死ぬことが続いている。昨日も、三匹に死なれてしまった。それで、暑さ(だけ)が原因ではないのではないかと思い始めたわけである。
 もうひとつ考えられる原因は、寿命だ。
 私は、経験上メダカの寿命は3年程度と考えていた。ネットで調べてみたところ、一番短いので1年寿命説があった。それでも、2、3年というのが多い。
 このところの我がメダカ環境の大きな違いは、放流をしなくなったことである。以前は、メダカが増えすぎると、近所の公園の池に放流していた。
 近所の公園で大きな池があるところは3か所だ。そのうち2か所は、放流などとてもできないくらい管理が厳しい。一か所は、「この池にいる生物」(すべて在来種)を掲示しているほどだし、もう一か所は、池こそあまり管理はしていないように見えるが、植物に関しては「委員会」のようなものがあり、ボランティアが厳密に管理している。我が家のメダカは在来種じゃないので、そういうところの池には放流しないほうがいいのは言うまでもない。
 だが、もう一か所の公園の池は、まったく管理していないように見える。だから、もっぱらそこに放流していたのである。同居するおばさんが反対するので、おばさんには事後報告していた。
 去年、今年は、おばさんが強硬に放流に反対した。その代わり、おばさんはがんばって里子先を探したので、それに免じて放流はしなかった。
 だから、寿命説+酷暑説が正しいようで、酷暑説はむしろ「従」で、「主」は寿命説なのだろうと思う。メダカだって年寄りは暑さに弱いだろう。
 来年は、産卵が終わったら早めに隔離し、孵化させ、あるところまで育ったら、親の世代は放流しようと考えている。このほうが、ライフセラピーの趣旨にはかなっているはずだ。ゴミみたいなのが泳いでいるのは、本当にかわいい。
 最後に、これからメダカを飼いたいと思っている人にアドバイスを。メダカを飼っている人は、だいたい増えすぎて困っているので、人づてに探して、もらい受けることをお勧めする。たどれば必ずいるはずだし、困っているはずなので、たいがいは喜ばれると思う。

44.鉄腕アトムには真空管が使われていた0911

 私の家にもテレビが来た。そう、あのころは「テレビが来た」と言っていたのである。「買う」以上のものだったのだろう。「テレビが来た」のは、もしかしたら5歳年下の妹が、私の知らないところで母親と闇取引した結果だったのかもしれない。それで、テレビ嫌いの私も多少はテレビを見るようになった。
 テレビも日本アニメも草創期で、テレビで放映されるアニメはほとんどアメリカ製だった。そんななかで、『鉄腕アトム』が毎週放映されるようになるという予告を見て、私は子ども心に相当心配したものだった。というのは、アニメというのはものすごく手間のかかるものだということは知っていたからだ。手塚プロダクション(もしかしたら、虫プロダクションが正しいのかもしれない)の人たちが過重労働で死んでしまうのではないかと思ったわけである。毎週だからね。
 それまで、その当時私が知っていた限りでは、東映が『白蛇伝』というアニメを劇場用につくったのが日本製アニメの最初で、その予告編でものすごく手間のかかるものだということを知っていたのである。後に知ったことだが、戦意高揚みたいなアニメは既に戦前にあったようだ。主人公は、「フクちゃん」だったはずだが、ほかにもあったのかもしれない。機関車のアニメがあったような気もする。同じものなのかな。よくわからない。
 徳川夢声のエッセイ(もしかしたら『日記』)で、シンガポールかどこやらで『ファンタジア』(ディズニー作品)を見て、「この戦争は負けると思った」という一節があった。それほど、日本アニメは後発だったのである。いまじゃ考えられないけどね。
『鉄腕アトム』が雑誌「少年」に連載されたのは1952年4月からである。私は学齢前から読んでいた。アトムは当時としては最新装備で人工知能搭載、あたりまえだが二足歩行ロボットだった。空を飛べるようになったのは、そこそこ後のことだったはずだ。
 だが、残念ながら制御系はIC、LSIといったトランジスター系ではなく、真空管だった。私が読み始めてから二回目だか三回目に、アトムが海の底に落とされ、そのそばに真空管がポツンとあるのを、私は目撃してしまったのである。
 アトムは無事回収され、お茶の水博士に修理されてめでたしめでたしなのだが、お茶の水博士は新しい真空管をアトムに装着していた。

 
45.場末言葉0912

 私が普段使っている言葉を、標準語とおっしゃる人がいる。
 ただ、自分としては標準語なんぞをしゃべっているつもりは毛頭なく、自分が普段使っているのは東京弁、それも場末の言葉であると思っている。もちろん江戸弁ではないし、下町言葉というのすら、荷がかちすぎている。
 私の子どもたちが小学生になり、ある日、「自分の部屋くらい、自分でかたせよ」と言ったところ、「なんだ、なんだ。それ、何語だ」と言われたことがある。標準語では、「かたづける」だ。彼らは横浜で生まれ、ある歳までそこで育ち、神奈川県藤沢市に移った。その彼らにすら、「かたす」は奇異に響く言葉だったわけだ。
 あと、場末では「落ちる」と言わず、「落っこちる」、あるいはもっと激しくは「落っこる」と言う。「結わえる」ではなく、「結わく」という。これが場末言葉である。もちろん、下町言葉とも共通点はある。
 ある言葉が、徐々に場末化する変遷をたどってみる。
「壊れる(標準語)」→「ぶっ壊れる(東京語)」→「ぼっかれる(下町語)」→「ぼっかる(場末語)」。場末まで来ると、もはや原語の痕跡すら留めていない。「ぼっかる」が完了形になると、「ぼっかっちゃった」になる。もはや、通訳が必要なレベルだ。
「おまめ」のところで申しあげたが、こういった言葉にも、微妙に地域によって差がある。もともとはもっと地域地域によって差異があり、昔々は、本所言葉、深川言葉等々、微妙な違いがあったのだと思われる。だって、深川は町人の町だが、本所は、下級ながらお侍さんがたくさんいたからね。言葉が違わないはずがない。
 この微妙な差異は、関東大震災で相当程度失われてしまったと聞いたことがある。余談だが、大阪で、船場言葉等々、言葉に微細な差異が残ったのは、大震災がなかったからだ。でも、いまでは、どうかなあ。大阪も、相当流入民がいるだろうからなあ。
 タダシちゃんと仲良くしてもらっていたころは、「損する」ではなく、「損ぼける」と言っていた。この「損ぼける」をあるとき、寺島(墨田区)生まれ育ちの友だちに使ったところ、通じなかった。墨田区は、一箇所であるが、江戸川区と接している。それでも通じない。
 ちょっと自信をなくしていたが、小岩のある雀荘で麻雀をやっていたところ、隣の席の、私たちよりちょっと年長の人たちが、「ほら、振り込め」「やだよ、損ぼけちゃう」と言っていたので、少なくとも小岩では使われていた言葉だったと、自信を持ち直したわけである。

46.ズル込み・横入り・割り込み0913

 場末言葉で、どうしてももうひとつ、お話ししておきたいものがある。
 それは、「ズル込み」である。いまは、一般的には「横入(よこはい)り」だろうと思う。「横入り」が通用している証拠になると思うのだが、「横入りした人を目撃したら、店員にお知らせください」と書いて貼ってあるのを見たことがある。なんだが客柄が悪く、なおかつ行列ができる店なんだろうなあ。直接注意して、喧嘩沙汰にでもなったんだろう。「横入り」よりさらに一般的には、「割り込み」だろうか。
 いまはそうとう民度が高くなっているので、電車に乗るときなど、「割り込み」も「横入り」もせず、どこでも整列乗車をしていると思うが、私が20歳のころは、少なくとも場末では我勝ちだった。
 ところが、その当時小田急線に乗ったところ、乗客はホームにきちんと整列して電車を待っている。「ああ、上品なところの人は違うなあ」と思ったが、電車の扉が開くなり、全員が我勝ちモードに突入。だったらはじめから並ばなければよろしい。「ヤナとこだなあ」と半分幻滅し、半分は「まあ、そういうもんだよなあ」と妙に納得したことだった。
 ところが、上には上があるもので、「大阪名物カニ歩き」というのがあった。電車が速度を落とし、ホームに入り、徐々にゆっくりになり、停まり、扉が開く。この「徐々に」の段階で、おばちゃんなんかは、扉を追いかけて横に歩く。これが「大阪名物カニ歩き」である。この現象は、80年代半ばくらいまで見られたと思う。これを大阪出身の人間に言うと、嫌がる、嫌がる。
 話を戻して、「割り込み」「横入り」がどことなくとりすまして、その分冷酷な感じがし、「自分さえよければいい」みたいな雰囲気なのに、「ズル込み」は人間の本性をとらえているというか、「ああ、しょうがねえなあ」という感じがしませんか?
 私は、このたぐいのことをしないようにしているが、それでも列をつくっている人のなかに知人がいたりして、隣に並び、一見「横入り」めいた態勢になることはあるはずである。そのときに、切り口上で「横入りしないでください」などと言われたら、「なにを! 話してるだけだろうが」とか応じるだろうけれども、「ズル込みしないでね」と言われたら、「ああ、ごめんね。そう見えるね」と答え、列を離れるだろうと思う。

47.ほれぼれするような江戸弁0914

 私の家のすぐそばにうなぎ屋があった。ここの爺さんが粋な人で、私の顔を見ると、「木戸銭やるから、映画でも見といで」と言って(木戸銭だよ)、200~300円くれた(このころ、映画はだいたい150円)。そのあとに、「おふくろに言うんじゃねえぞ」と必ず付け加えた。私は子どもだったし、素直だったので、その金は必ず映画に使ったし、母には言わなかった。
 おかげで、昭和30年代ごろの映画は、相当見ている。映画館はたくさんあったが(邦画5社では、東宝の封切館だけが小岩にはなかった)、2、3回行くと、子どもが見たい映画は全部見てしまう。それで、しかたないので、園井啓介主演のよろめきドラマまで見た。子どもが見ても、おもしろくもなんともない。当たり前だけど。見たい映画がなくなると、爺さんに会わないように別の道を使ったりした。
 小岩大映という映画館で、力道山が原爆マグロを食べて怪物になってしまう映画を見た。子ども心に、「これって、いいのかなあ」と思ったのをおぼえている。力道山が怪物になり、東京タワーをユサユサゆするのである。すごいでしょ。
 さすがに、いま思うと、原水禁だか、原水協だか、そういったところからクレームがついたのだろうねえ、数日で上映中止になった。当時は週変りだったのである。
 これだけなら、当時はいいかげんな映画もつくっていたのだなあという話で終わりだが、その2週かそこら後に、名作『第五福竜丸』を同じ映画館で見た。すごいでしょ。なんともアナーキーだ。
『第五福竜丸』は、ビキニ環礁の水爆実験で「死の灰」をかぶってしまった人たちの話である。三名亡くなったはずで、お二人は久保山さん、清水さんというお名前だったと思う。60年前の記憶なので、間違っていたらごめん。もうおひとりは憶えていない。
 ところで、うなぎ屋の爺さんは、おそらくちゃんとした江戸弁をしゃべっていたのだろうが、こっちは右も左もわからないチビ助なんで、わからなかった。ただ、爺さんの奥さんは、いつも長火鉢の前に座って、なんだかよくわからない言葉でしゃべっていた。よくわからない言葉だというのだけは、よくわかる。もしかしたら遊女あがりだったのかもしれない。ここいらへんは、私はまだ、日本語もろくすっぽしゃべれないころだったのでなんとも言いがたい。
 私が20歳を過ぎたころ、小岩駅南口すぐに、「モルダウ」という喫茶店ができた。ここのご主人は木内益男さんとおっしゃったのだが、ほれぼれするような江戸弁をしゃべった。コーヒーの味も悪くはなかったが、江戸弁を聞きたくて、よく通ったものだ。
 もう落語家にも、本当の江戸弁の人はいなくなったなあ。でも、いま生きている人で、本物の江戸弁をしゃべる人がいたら、奇異な外国語をあやつる人みたいで、かえって気持ち悪いかもしれない。
  

48.幼稚園中退0915

 昔々、いま同居しているおばさんと、柳家小三冶さんを聞きに行ったことがある。そのときに、おばさんの旦那さん(その当時で既に故人)と同じ会社の人が偶然聞きに来ていた。どういういきさつかは忘れたが飲みに行った。まあ、久しぶりだから一献ということだったのだろう。
 こういうシチュエーションだから、話題は故人のことが中心になる。私は、お会いしたこともないので、当然ながら話に加われない。
 たぶん、その人がその状況を気にしてくれたのだろうと思うが、話題が出身地のことになった。その人が、「ご存知ないでしょうけど、私は江戸川区の上一色というところの生まれで」と言うので、「知ってますよ。私、上一色幼稚園中退です」と返した。「私は卒業しました」と返ってきた。それ以来、私はその人を「先輩」と呼んでいる。
 母親が仕立職であり、ジャマなチビ助をどっかに預けて存分に仕事をしたかったのだろう。私は3年保育で幼稚園に入れられた。保育園はほぼなかった。というより、欠損家庭の子どもが行くところと思われていたフシがある。後年、私が長女を0歳で保育園に預けたところ、毎晩母は、「かわいそうだ」と泣いていたという話をあとから聞かされた。まあ、そういう時代だったんだろうなあ、母の時代は。
 当時、少なくとも上一色幼稚園では、3年保育で入ったのはほとんどいなかった。まわりは、年齢で言えば、3割増しくらいの子どもばかりで、チビ助はよくいじめられた。まあ、チビ助、じゃまくさいからね。仕方ない。で、いじめはだんだんエスカレートして、あるとき、ジャングルジムの最上段から落とされた。その日、このままでは殺されるんじゃないかと、私は幼稚園を脱走した。
 それで、私は利発なチビ助だったので、お弁当を残して帰ると疑われると思い、お弁当を食べ、時間をつぶしてから家に帰った。すごいでしょ? チビ助ながら、証拠隠滅を図ったのである。
 ただ、証拠隠滅の場所がよくなかった。前述した、母親と仲のよかったボタン屋さんで証拠隠滅を図ったのである。チビ助の限界だな。いまだったら、公園とか、神社の境内とかで食べる。なにを総括してるんだか。
 バレるよなあ、あたり前だけど。二、三日で母に通報され、私の脱走劇は白日の下にさらされることになった。
 幼稚園からの脱走径路には、一箇所、農業用水のようなところを丸木橋で渡るところがある。いじめそのものを母は問題にはしなかったが、3歳のチビ助が、そんな危険を侵したこと、さらに、数日間脱走に気がつかなかった幼稚園側の怠慢を問題にし、私はめでたく幼稚園中退になったのである。
 幼稚園中退というこの学歴(?)、私はけっこう気に入っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?