シェアハウス・ロック2309後半投稿分

48.幼稚園中退0915

 昔々、いま同居しているおばさんと、柳家小三冶さんを聞きに行ったことがある。そのときに、おばさんの旦那さん(その当時で既に故人)と同じ会社の人が偶然聞きに来ていた。どういういきさつかは忘れたが飲みに行った。まあ、久しぶりだから一献ということだったのだろう。
 こういうシチュエーションだから、話題は故人のことが中心になる。私は、お会いしたこともないので、当然ながら話に加われない。
 たぶん、その人がその状況を気にしてくれたのだろうと思うが、話題が出身地のことになった。その人が、「ご存知ないでしょうけど、私は江戸川区の上一色というところの生まれで」と言うので、「知ってますよ。私、上一色幼稚園中退です」と返した。「私は卒業しました」と返ってきた。それ以来、私はその人を「先輩」と呼んでいる。
 母親が仕立職であり、ジャマなチビ助をどっかに預けて存分に仕事をしたかったのだろう。私は3年保育で幼稚園に入れられた。保育園はほぼなかった。というより、欠損家庭の子どもが行くところと思われていたフシがある。後年、私が長女を0歳で保育園に預けたところ、毎晩母は、「かわいそうだ」と泣いていたという話をあとから聞かされた。まあ、そういう時代だったんだろうなあ、母の時代は。
 当時、少なくとも上一色幼稚園では、3年保育で入ったのはほとんどいなかった。まわりは、年齢で言えば、3割増しくらいの子どもばかりで、チビ助はよくいじめられた。まあ、チビ助、じゃまくさいからね。仕方ない。で、いじめはだんだんエスカレートして、あるとき、ジャングルジムの最上段から落とされた。その日、このままでは殺されるんじゃないかと、私は幼稚園を脱走した。
 それで、私は利発なチビ助だったので、お弁当を残して帰ると疑われると思い、お弁当を食べ、時間をつぶしてから家に帰った。すごいでしょ? チビ助ながら、証拠隠滅を図ったのである。
 ただ、証拠隠滅の場所がよくなかった。前述した、母親と仲のよかったボタン屋さんで証拠隠滅を図ったのである。チビ助の限界だな。いまだったら、公園とか、神社の境内とかで食べる。なにを総括してるんだか。
 バレるよなあ、あたり前だけど。二、三日で母に通報され、私の脱走劇は白日の下にさらされることになった。
 幼稚園からの脱走径路には、一箇所、農業用水のようなところを丸木橋で渡るところがある。いじめそのものを母は問題にはしなかったが、3歳のチビ助が、そんな危険を侵したこと、さらに、数日間脱走に気がつかなかった幼稚園側の怠慢を問題にし、私はめでたく幼稚園中退になったのである。
 幼稚園中退というこの学歴(?)、私はけっこう気に入っている。

49.子どもの労働0916

 ちょっと前に、「象徴的に言えば、子どもたちがそれなりに自己を確立しているものの、労働に従事しておらず、まだ大人になっていない期間、つまり厳密に管理されるべき人間として扱われるようになるまでの、ほんの短い期間だけ、この子どもの解放区のような時間が存在したのではないか」と書いた。ちょっとわかりにくかったと我ながら思う。わかりやすくは、「子どもたちがそれなりの体力、知力がついた後で、かつ、労働力として期待されるまでの期間」ということになる。つまり、子どもの労働というのが頭の片隅にあったため、こういうわかりにくい書き方になってしまったのだと思う。
 いま、子どもの兵士が問題になっている。それと同じ構造で、子どもの労働も問題になっている。前者も後者も、10歳くらいの少年、少女までもが、兵士、労働者として期待されている場所が、残念ながら世界にはある。
 家庭によってはという留保条件がつくけれども、子どもたちがそれなりの労働をするということは、私の小学生時代にもあった。子どもの労働などと大げさに書いたが、労働と呼べるだけの感心なことをやっている子どもたちも、私の小学生時代にはいたという意味である。
 あさりしじみ売り、納豆売りは、子どもの仕事だった。
 あるとき母親が、朝、納豆を買いに出て、家に帰るなり「おまえの2年先輩だったよ」と言ったことがある。つまり、最低でも、私が小学1年のときだ。私は、朝が弱かったので、あと2年経ったら私も早起きして納豆を売り歩かなければならないのかと、相当におびえた。幸い、そうならずに済んだが、このとき納豆を売らされたら、もうちょっと怠惰ではない、ましな人生を歩めたのかもしれない。
 私の学区域にはたくさん商店があり、そこの子どもも同じクラスにいた。私たちの学校は、3年でクラス替えがあった。1、2年は乾物屋の子、焼き鳥屋の子が同じクラスにいた。もっといたのかもしれないが、ぼんやりした子どもだったので、おぼえていない。クラスの組み替えがあった3年生からは、八百屋の子が二人いた。ひとりはアイダくんといい、もうひとりはナミキくんといった。
 四年生のとき、母親にお使いを頼まれ、ナミキくんの家に大根だったかなんだったか、買いに行ったことがある。ナミキくんは手伝いでお店に立っており、私に対応してくれ、本当に素早くお釣りの計算をした。実は、ナミキくんは、学校ではあんまり算数ができなかったのである。私は、「算数できるじゃん」と声をかけた。「こういうのはできるんだよね」というのがナミキくんの答えだった。

50.少年時代の終わり0917

「おかめ亭の人々」から長々と、私の子ども時代のことを書いてきた。
 あまり長く同じ話題だとご退屈かもしれないと愚考し、少年時代の話はこのへんでひとまず打ち止めにする。
 少年時代の話を終えるにあたって、どうしてももう一度言っておきたいことがある。それは「子どもは地域が育てる」ということである。いまは、たぶんそうではない。
「おかめ亭の人々」のところで書いた東海銀行の並びに、小林靴店があった。おじさんは、靴をつくって売っていた。もちろん自家製だけではなく、既製品も売っていた。
 私が高校に受かってすぐ、店の前を通ったときに、「ちょっと来い」とおじさんに呼び止められ、「入れ」と言われ、入ったら「座れ」と言われて椅子に座った。その真ん前におじさんがいつも座り、作業をしている椅子がある。おじさんはメジャーを出し、私の足を測りはじめた。
―ああ、これは入学祝いに靴をつくってくれるんだな。
と察した私は、「おじさん、だめだよ、そんなことされても受け取れないよ」と言った。おじさんは、「うるせえ。黙って座ってろ。動いたら測れねえ」と言った。
 仕方ない、おとなしく測ってもらい、家に帰ると早速母親にこの話をした。大人は大人同士のつきあいとかあるだろうと思い、真っ先に報告したのである。
 母親は、
「あの人は、顔は怖いけど、そういう人なんだよ。
 おまえが小さいとき、表でお兄ちゃんたちと遊んでいただろう。それで、『あの子(私のことね)は、大人しくていい子(私のことね! しつこいようだけど)だから、悪ガキにいじめられるんじゃねえかと思ってさ。おれ、仕事しながら見張ってるから、安心しな』って言ってくれたことがあるよ」
と、私の知らなかったことを教えてくれた。これは、「子どもは地域が育てる」ということの、優れた例証だと思う。
 いま、子どもたちにとっての「地域」は完全に失われてしまった。少し前に、八王子の「子ども食堂」を主宰する人の話を聞いたことがある。その人によれば、
「いまの子どもは、学校と家庭しか居場所がない。もし、その家庭に多少なりとも問題があれば、子どもたちの居場所が半分になってしまう。子ども食堂は、食事を提供するより前に、子どもの居場所を提供する場所になりたい」
ということだった。この話を聞き、少なくともこの人たちの子ども食堂は、「地域」になる可能性があると思った。
 私は、「悠々不適」なので、たいしたことをできるはずもないが、なにかあるたびに彼らの活動に、貧者の一灯を捧げることにしている。これは、ささやかだけれども、私にしてみれば小林靴店のおじさんから受け継いだ意志である。

古今亭志ん朝さん0918

「日本に生まれてよかった」と思うことはほとんどない。政治的に見たら、日本はほとんど世界でも最低水準の国なんじゃないかと思うことすらある。社会的、政治的な領域で、日本が世界に誇れることは、国民皆保険制度くらいじゃないか。あとは、水道システムである。蛇口から出る水をそのまま飲めるところは、世界でも少ないはずだ。
 そんな私でも、つくづく「日本に生まれてよかった」と思うことがいくつかはある。そのひとつは、落語である。落語は、世界最高峰の話芸であると言って、けっして言いすぎではないと思う。私の敬愛する小林信彦先生も、「世界でもっとも洗練された笑い」とおっしゃっておられる。
 その最高峰のなかの最高峰は、私の知っている限りでは、柳家小三冶と古今亭志ん朝である。二人とも死んじゃったけどなあ。志ん朝さんは若くして亡くなってしまった。もう、20年はたっているだろうか。63歳だった。これからさらにあぶらが乗り、そして枯れていきという、そんな矢先のことだった。残念である。小三冶さんが亡くなったのが残念なのは言うまでもないけれども、でも、まあまあ、天寿をまっとうされたほうだろう。
 じつは、私は、上野鈴本で、志ん朝さんの真打襲名披露を見ている。中学一年のときだ。「膝代わり」は、志ん朝さんのお兄さんである金原亭馬生さん。「膝代わり」はあまり派手な噺ができない。新真打の引き立て役で、新真打の直前(正確には、「膝代わり」、襲名披露、新真打登場となる)にやるからね。演目は忘れたが、地味な噺で、持ち味がよく出ていていい高座だった。
 真打襲名披露も豪華だった。文楽(八代目)、正蔵(後の彦六ね。三平の倅でなく)が並んで座っているなんて、なかなか見られるもんじゃない。
 そうして、いよいよ真打登場。新太改め志ん朝である。

客席がガラガラに0919

 新真打・志ん朝の噺が始まって5分もすると、母が恐い顔をして「お兄ちゃん、帰ろう」。「だって、まだやっているのに…」と言いかけた私に、「こんな噺は、最後まで聞いてちゃダメなんだ」と母は言った。しかたない。母に従い立ちあがり、下足(当時の鈴本には、まだ下足番がいた)のところで高座のほうを振り返ったら、私らに続く人がぞろぞろいて、客席はガラガラになっていた。半数くらいは帰り仕度をしていたんじゃないか。
 たぶん、新太改め志ん朝に、「おまえさん、まだまだだよ。真を打つのは早いや。勉強し直せよ」という、小言というか、励ましというかの途中退場だったのだろう。
 母とは落語の話なぞしたことがなかったし、それからもしてないし、そんなに落語がわかっていたとも思えない。そうそう、馬生さんに対しては、「うまいねえ、この人は」と母は言っていたから、わかってはいたのかもしれないな。
 新太改め志ん朝は、そのころマスコミで売れっ子だった。たぶん、タレント落語家のハシリだろう。テレビでもコント番組みたいなののレギュラーだったし(『サンデー志ん朝』なんて番組すらあった)、『若い季節』という、たしか日曜日のゴールデンタイムにNHKでやっていたドラマの準レギュラーでもあった。
 だが、志ん朝さんは、真打襲名後、徐々にテレビ出演を整理していき、ぷっつりとテレビに出なくなった。おそらく、落語に本腰を入れ、修業したんだろうな。
 それから数年して、あちらこちらから、「志ん朝がいい」「うまくなった」などの声が聞こえてくるようになった。
 ただ、私は、志ん朝さん、噺のなかで「えーっ」というのをやたら入れるので、それがちょっといやで、「あれが直ったら聞きに行こう」と思い続け、とうとう生では聞かないうちに死なれてしまった。「えーっ」くらいどうでもよかったのになあ。残念だ。悔やんでも悔やみきれない。
 おそらく間違いはないとは思うのだけれど、真打襲名披露の客席の状態で発奮し、研鑽を積み、当代の名人ということになったのだろう。このことを、ご本人に確かめてみたかった。私の知っている限り、ご本人は、このことをいっさい口にしていない。
 志ん朝さんに死なれてしまった喪失感は大きく、それからは志ん朝さんのCDやDVDでしか落語を聞かない期間が続いた。

【Live】トロイの木馬だって!?0920

 コンピュータの画面が突然赤っぽくなった。「いま使っているパソコンにトロイの木馬が送られているから、強制終了しないように」とメッセージが出た。「修復にはここに電話しろ」とあって、そのメッセージの出どころはマイクロソフトと書いてある。
 電話番号は、0120で始まっている。0120ならば無害だし、「マイクロソフトも親切になったもんだ」と思い、電話をしてみた。なんだか日本語のあやしい女性が出て来て、いろいろ指示をしてくるので、その指示に従ってしばらく操作をした。この時点では、それほどは疑っていなかった。
「それほど」というのは、トロイの木馬はコンピュータそのものにとっては無害であり、だから「強制終了しないように」という指示はヘン。個人情報が流出したり、銀行口座やECサイトに不正アクセスされたりする恐れはあるものの、私にとっては、それほどの被害はないと心得ていた。ネット口座持ってないし、クレジットカードも持ってないので実質無害だから、大騒ぎする必要もない。
 で、そのあやしい女性は最終的に、「コンビニに行き、なにやらいうカードを5万円分買い、それによって送金されたことになるので修復する」と言ってきたので、「今日中には無理だ」と言って電話を切った。2か月くらい前のことだった。
 5万円は太いよなあ。だって、いま使っているコンピュータは、ウィンドウズ込みで3万円だもん。あまり自慢にならないけど。
 私のコンピュータは、 [Ctrl]+[Alt]+[Delete]で、問題なく修復した。
 なんで2か月も前のことをいま【Live】で言っているかというと、一昨日、Edgeの右のほうに「福島の汚染水」「水道が危険」というフラッグのようなものが出てきて、ヘンなことを言うなあ、水道が危険になるはずないよなあ、どういうことだろと思い、クリックしたところ、冒頭のような状態になったからである。
 これは、フラッグとセットなのか、たまたまなのかは、よくわからないが、セットと考えたほうが近い気がする。

志ん朝さんの悪口0921

 志ん朝さんの悪口をひとつだけ。
「とんでもございません」と言うんだよ、あの人。もっとも、これは、志ん朝さんだけの悪口ではないな。黒柳徹子もよく言う。それ以外にも、「とんでもございません」を頻発する「とんでもない」人がたくさんいる。
 前に住んでいたところの近くに『461』というバーがあって、よくライブをやっている。音楽のライブだけではなく、落語のライブ(?)もあり、やはり当代一、チケットがなかなかとれないという評判の噺家さんが年に一回来る。あるきっかけから、寄席、落語によく行くことになってから、その人の落語のときも、頻繁に足を運ぶことにしていた。この人も、うまいと言われている人である。もってまわった言い方をしたが、たしかにうまいことはうまい。まだなんかひっかかる言い方だな。まあ、よろしい。
 こういうときは、二席やることになっている。前座噺と、もうちょっとじっくり聞ける噺との二席である。
 この中入りのとき、愛煙家は、外に出て煙草をくゆらすことになる。その噺家さんも愛煙家なので、この喫煙所で一緒になる。
 このときに、ファンの人は、一緒に写真を撮ったりする。まあ、噺家さんとしてはファンサービスである。噺家さん、ある人と話していて、「とんでもございません」を二回言っていた。そのある人がいなくなり、噺家さんと私と二人だけになったので、「『とんでもございません』は間違いですよ。大店(「おおだな」って読んでね)の番頭さんが、『とんでもございません』なんて言うと悲しいから、ご注意されたほうがいいですよ」と申しあげた。「つい言っちゃうんですよね」という気持ちのいい答えが返ってきた。
 本当は、これは、彼にではなく、志ん朝さんに言いたかった言葉だった。
 言うまでもなく、「とんでもない」(形容詞)でワンワードなので、「ない(の丁寧語)=ございません」つまり、「とんでも+ございません=とんでもない(の丁寧語)」というのはヘンどころか、日本語として間違いなのである。正しくは、「とんでもないことでございます」だろうと思う。
 似たような間違いに、「たまりません」というのがある。これも、「たまらない」(形容詞、ワンワード)を、前述のような操作をしてしまうことによる間違いである。「つまりません」もおかしいような気がする。
 同じ「とんでもございません」でも、無知蒙昧な職人さん(たとえば、『大工調べ』で与太郎の親方をやっている人)が口にするんならまだ可愛げがあるけど、しかるべき人、たとえば「いまは亭主が浪々の身で長屋暮らしをしているもののどことなく品のある人」(これは『唐茄子屋政談』の奥さんのことだ)あたりが、「とんでもございません」というのはなんか悲しいやね。

ちょっと解説というか言い訳0922

 前回のお話は、私が言語超保守派みたいな感じになっている。そう思われるのは心外なので、ちょっと言い訳をしておく。
 まず、言葉は変っていく。生命を持っているのだ。つまり、「正しい」は「いつまでも、正しい」というわけではない。だから、「とんでもございません」は「日本語として間違い」ではあるが、間違えるのも変化(進化)の一因だから、それは仕方ないことである。考えてみたら生物の進化のもとも、遺伝子のコピーミスである。それ自体、いいも悪いもない。
 でも、落語は江戸弁でやるものだし(ああ、大阪落語は大阪弁だよ、当たり前だけど)、だったら、正しい江戸弁でやってほしいというだけである。そのほうが気分が出るし、聴くほうも心地よく聞ける。それだけの話だ。
 前回、「つまりません」も「たまりません」もおかしいと申しあげたのは、「つまる」「たまる」の連用形に「ません」をつけてしまったら、「つまらない」→「つまりません」、「たまらない」→「たまりません」で、意味が変わってしまうからだ。前者は下水管みたいだし、後者は貯金みたいになってしまう。
「とんでもございません」をきっぱり間違いだと申しあげたのは、「つまる」「たまる」に相当する語幹のごときもの「とんでも」がこの世にはないからである。
 でも、このごろでは、「ございません」圧力によって「とんでも」もあるようになってきたようで、30年くらい前から「と学会」という学会(笑)すらある。これは、「とんでも」を研究対象にする学会のようだ。ああ、とは言っても、「とんでもない」ことを言っているのを対象にした「学会みたいなもの」ね。国語学ではなく、「とんでも学」。
 つい最近読んだ『ことばと国家』(田中克彦)に教えられたこともあり、「とんでもございません」問題を言いっぱなしにするんではなく、若干の解説をしてみたくなったわけである。

あるきっかけ0923

『461』というバーは、外苑東通りと靖国通りをつなぐ坂(新坂)の途中にある。靖国通りからは登りになっており、ちょうど中腹といっていい位置だ。
 靖国通りで新坂の一本東にある坂が津の守坂である。「つのかみざか」と読む。松平摂津守の屋敷があったから、そう呼ばれるらしい。
 その津の守坂の、今度は中腹ではなく、ふもとと言っていい位置に、『寛永』という焼酎バーがある。とても居心地のいいバーで、一時期私は根城のようにしていた。
 ある日、私の左隣に座ったカップルに、「落語の会があるので、いらっしゃいませんか」と声をかけられ、私は、酔っ払った勢いで「いいよ」と答えてしまった。飲みが足らなかったら、「落語は、志ん朝のCD聞いてるだけで十分だから、いいよ」と答えたはずだ。同じ「いいよ」でも、内容は180度違う。
 その落語の会の演者は春風亭一之輔で、このときはまだ二つ目だった。
 この落語会では、鮮烈な思い出がある。その落語会は夕方からだから、私らは当日昼間、十条銀座というところへ出かけており、「落語のあと、同じ場所で飲み会がある」と聞いていたので、出かける前から、「なにか差し入れを持っていこう」と考えていた。十条銀座で、名物っぽい、小さなおにぎりを売る店を発見した。十条銀座を一回りし、、落語会のある西新宿に向う直前、差し入れのおにぎりを買おうとその店に向う途中、手前の電機店の店先のテレビで、春風亭一之輔がNHKの落語新人賞みたいなものを受賞したことを知ったのである。当日のことなので、なんかの符合かしらとすら思ってしまった。
 落語会での一之輔の出来は素晴らしかったし、飲み会で出された料理も素晴らしかった。誘ってくれたカップルは、知り合いがたくさん来ていて忙しそうだったので、誘っていただいたお礼と、「志ん朝さんのCD聞いてるだけで十分だと思っていたけど、生も聞かないとだめだね。こんな人が出てくるなんて、生聞かないとわからないよ」とだけ言って、そこを辞した。
 後に、『寛永』でお会いしたとき、「当日のお話を、一之輔さんにしたら、喜んでましたよ」と言われて、「あらら、ご本人に言っちゃったんだ」と、ちょっとびっくりした。
 

金原亭馬生さん0924

 志ん朝襲名のところでちらっと出てきた金原亭馬生さんは、古今亭志ん朝さんの実の兄である。この世界、兄弟弟子っていうのもあるからね。油断はできない。ご兄弟の父親は、古今亭志ん生(五代目)である。
 古今亭志ん生は名人であったが、芸は相当破天荒であった。生活も負けずと破天荒だった。生活が破天荒だと、芸も破天荒で、名人になれるのかしら。そんなことはないよなあ。生活が破天荒でも、芸はろくでもないのがいくらでもいる。実名あげようか。そこまですることはないな。
 志ん生さんの破天荒の例はいくらでも挙げられるが、関東大震災のときに、「これで酒が飲めなくなるのではないか」と考えて、店の人間が震災で逃げ出した酒屋にこれ幸いと入って酒を飲みまくり、はしごをしたというだけで十二分だろう。とどめで、大戦末期に市中に酒がなくなったので、慰問団に加わり、大陸に酒を飲みに行ったというのがあれば、オツリが来る。
 ただ、名人は名人だったので、戦後ほどなく売れっ子になり、ラジオ番組(当時は落語、浪花節、講談なんていうのがメインのコンテンツだった)に出ずっぱりになり、暮らし向きもだいぶよくなったのだろう。それまでは『びんぼう自慢』などという著書すらあるくらいで、そうとうに貧乏したのだろうと思う。
 貧乏時代のことに関して、金原亭馬生さんのスゴい言葉がある。どこに掲載されていたのかは忘れたが、インタビュアーが、「相当貧乏されていたんですよね」と聞くのに対して、「私らは、確かに貧乏でした。志ん生がどうだったかは知りませんが」と答えたのである。この証言で、志ん生さんが、あまり家に居つかなかったのもわかろうというものだ。
 口に出してこそ言わないものの、「噺家としては尊敬するが、親父としてはちょっと…」という馬生さんの矜持のようなものが感じとれる。あからさまに口に出して言わないことこそが、相当の矜持である。だから、馬生さんは、「親父」とは呼ばなかった。いつでも、「志ん生」である。
 馬生さんに対して志ん朝さんはおそらく暮らし向きがよくなってからもの心ついたのだろう、志ん生さんを「親父」「おとっつあん」と呼ぶ。これも、開けっぴろげでなかなか好感が持てる。
 ナマ馬生さんを見たことがある。上野池之端の「藪」という蕎麦屋で、私らがビール飲みながら蕎麦を食べていると、私の2メートルくらい先の小上がりに馬生さんが来て座った。まず座り姿がきれい。噺家だからね。
 蕎麦と日本酒が黙って出てきて、馬生さんは蕎麦を一本一本食いながら、すいすいと日本酒を飲んでいく。頃合を見て、お銚子が追加される。三合飲んで、「ごちそうさん」と一言言って出て行った。
 かっこいいなあ。始めからしまいまで、言葉もなく見ていた。

馬生が破天荒な芸風?0925

 私は、年金生活者である。厚生年金と国民年金の二階建てだ。大きな病気でもしない限り、当『シェアハウス・ロック』に書いているように、年金だけでなんとかなる。とは言っても楽々ということではまったくない。なんとか飢え死にしないで済むといった程度だ。だから、「悠々自適」ではなく、「悠々不適」。この不適が、大胆不敵みたいで、なかなか気に入っている。
「悠々不適」だから、ここへ移ってきてから、大きな買い物はしてないし、しようと思ってもできない。
 本は、基本的に図書館で借りる。雑誌で読みたい記事があるときは、図書館まで読みに行く。こういうふうにしてから、本の読み方もだいぶ変ってきた。
 それでも、本屋には行く。本屋といっても古本屋である。この世の中で、私が一番好きな場所が古本屋である。古本屋で背表紙を見ていくのが好きだ。「ああ、この本おもしろかったなあ」「これはくだらなかったなあ」などと思いながら、背表紙を見ていく。一時間くらい、あっという間に経ってしまう。
 ところが、私の住んでいる町には古本屋がない。昔はあったようで、こっちに移った当初、その看板も見ているのだが、開店しているのは一度も見なかった。
 隣駅には、ブックオフがある。本当はブックオフでは、前述の欲望はたいして満たされないのだが、仕方ない。次善の策である。
 古本屋に入ると、ほしい本が一冊もなくとも、「背表紙の見物料」として、なにか一冊は買うことにしてきた。ブックオフも、古本屋と言えば古本屋である。
 あるとき、『サンケイ抄』(石井英夫著)を買った。「名エッセイである」という評判が高いので、「一度は読んでみるかな」と思ったのである。110円だし。
『サンケイ抄』は、産経新聞のコラムで、朝日で言えば「天声人語」、毎日で言えば「余禄」に相当するところなのではないか。たぶん、そうだと思う。それをまとめたものを買ったわけである。
 産経新聞は、一言で言えば右寄りの新聞である。私は、どちらかと言えば左翼だが、右翼を毛嫌いしているというわけでもない。右翼でも、ちゃんとした右翼は聞くべきものをもっている。
 ただねえ、ちょうど買った『サンケイ抄』が古今亭志ん朝さんが亡くなったあたりの時期をまとめたもので、石井英夫さんが志ん朝さんを悼む記事が載っていて、そのなかで、「志ん朝さんの芸は端正、それに対して兄貴の馬生さんは破天荒」といった意味のことを言っていたのである。
 馬鹿言えよ。馬生さんは、端正を通り越して陰気と言ってもいいような芸風だったんだよ。こんなことは、下町生まれ育ちだったら、小学生にだってわかる。なんでこんな、小学生でもわかるようなことを間違えたのか。
 ああ、こんなことを書いていたら、志ん朝さんの襲名披露のときの馬生さんの演目を思い出した。『あくび指南』だった。人間の頭ってえのは、不思議だねえ。

言語も落語も算数ではない!0926

 石井英夫さんの悪口のようになっているが、『サンケイ抄』は評判にたがわず、なかなかの名エッセイ集ではあった。だが、前回お話しした馬生さんのくだりはいただけない。
 石井さんともあろう人が、なんでこんな間違いをするのだろうか。
 思うに、
古今亭志ん生(五代目) =破天荒な芸だが名人
古今亭志ん朝 =名人
 左辺を引くと、
金原亭馬生が残り(本当か?)
 右辺を引くと、
破天荒が残る
 よって、
金原亭馬生 =破天荒
という操作をしてしまったのではないか。
 私のように知性の劣るものは、自分なんかの知っていることは最低限のことであって、そこを間違えられると、そのほかのことまで信用できなくなってしまう。ねっ、そんな知性の人間が、前述のように「『サンケイ抄』は評判にたがわず、なかなかの名エッセイ集ではあった」なんて書いても、全然説得力ないでしょ。なにを言ってるんだか。ぐちゃぐちゃだね。でもまあ、知性が劣る実証にはなっている。
 石井さんが上述の数式(?)で馬生さんの芸風を判別したとしても、天下の産経新聞に、それに対するチェック機構がないというのが信じられない。チェック機構はありますよと産経新聞御中は言うかもしれないが、でも「サンケイ抄」に掲載し、それをまとめた文庫本に再掲載されたわけだから、少なくともこの件に関しては、チェック機構がダブルで働かなかったと言っていいだろうと思う。
 そうそう、本日の標題の落語に関しては今回でお話できたと思うが、言語のほうは、何回か前にお話しした「とんでもございません」「たまりません」のことである。これも、今回のお話同様、あまり感心できない算術的操作によるものだろうと思われる。

美濃部家の人々0927

 前回、

 左辺を引くと、

金原亭馬生が残り(本当か?)

と書いたが、(本当か?)と書いたのは、金原亭馬生さん、古今亭志ん朝さんともうお二人、志ん生さんには子どもさんがいるのである。お姉さんが美濃部美津子さん、その妹さんが喜美子さんとおっしゃる。妹さんのほうは、三味線豊太郎である。
 いきなり、美濃部などとなんとも立派な姓が出てきたが、実は志ん生さんの本名は美濃部孝蔵という。落語家としてはなんとも武張ったお名前だが、旗本の血筋だという。
 旗本の血筋にしては、志ん生さんの落語に出てくるお侍さんはヘンテコな侍言葉を使う。ヘンテコと言えば、志ん生さんの噺に出てくる関西弁もヘンテコ。まあ、落語もなんとなくヘンテコだから、つじつまは合っている。おもしろいけどね。おもしろいことは、ほんとうにおもしろい。
 さて、左辺のもうおひとり、美濃部美津子さんである。私は、美津子さんにお会いしたどころか、言葉を交わしたことすらある。
 谷中銀座という商店街がある。不忍通りから入っていき、夕焼けだんだんのちょっと手前の右側に、お土産ものみたいなものを売っている小さなお店がある。四谷に住んでいたころ、谷中は散歩コースで、その店にはよく立ち寄り、立ち寄るだけでは悪いので、小物を何点か買ったりした。
 ある日、店番をしていたおばあさんが、どうも美濃部美津子さんのようだった。普通ならそんなことに気がつくわけもないのだが、その店にはなぜか志ん朝さん、志ん生さんのCDがたくさん置いてあり、故志ん生さんの家も近所なので、「親戚かなんかなのかしら」と思っていた。それで美濃部美津子さんかなと思ったわけだった。
 ご本人に聞くのも失礼だと思ったので、その日はそのまま店を出て、次に行ったときに、美津子さんらしき人はおらず、店主とおぼしき人だけだったので、聞いてみた。
「この間、店番をしていた方は、美濃部美津子さんですか。本で拝見したお写真に似てらしたので」
「そうだよ」
「ご親戚かなんかなんですか」
「親戚でもなんでもねえんだけどさ、年寄り一人で住んでちゃ、ほっとけないだろう」
 いいなあ。なんだか、人情噺のような話だ。

 だから、私は、美濃部家の人々とは、高座で志ん生さん、志ん朝さん、蕎麦屋で馬生さん(高座でも)とお会いし、美津子さんとはお土産物屋でお会いしたことになる。
【追記】
 8月30日の毎日新聞で、美津子さんの訃報に接した。99歳だったという。ご兄弟の志ん朝さん、馬生さんはどちらも噺家としては若くしてお亡くなりになったが、美津子さんは天寿をまっとうされたと言えるだろう。冥福をお祈りする。

【Live】メダカの遺児たち0928

 9月2日の【Live】で、ふたつあるメダカ鉢のひとつ、睡蓮鉢のほうのメダカが全滅してしまったことを書いた。このとき、もうひとつのメダカ鉢(元は火鉢)には20匹くらい生存していた。それで、ここからまた育てて、系統をつないでいくんだなと思っていた。
 で、睡蓮鉢のほうはしばらくそのままにしておいた。一週間ほど前、掃除でもして水を替えようと覗いてみてビックリ。
 なんとなんと、全滅した諸君の遺児が10匹ほど、悠々と泳いでいたのである。
 全滅の原因として、酷暑説、寿命説を考え、寿命説で多少気が楽になったものの、それでも、なんだかいまいちクシュンとしていたのだったが、遺児たちを見て、私も生き返る心地がしたわけである。
 ライフセラピーとは、こういうことなんだなあ。命がつながっていくという安心感は大きいと、つくづく実感する。
 私は猫も好きだ。「猫も」などと余裕を見せているが、じつは、私は、最高の人間より最低の猫のほうがまだ偉いという信仰を持っている。だから、本当は猫を飼いたいのだが、私らのシェアハウスのある棟はペット禁止なので、あきらめているわけである。
 というわけで、ペットセラピーには理解があるほうだと自分では思っているものの、ライフセラピーのほうがより根源的という感じがする。
 でも、メダカの話が多くてゴメンね。
 老人3人暮らしのシェアハウスでは、あんまり変わった出来事は起こらない。無事これ好日というか、変わり映えしないというか、まあ、そんなところである。だから、メダカネタが多くなる。
 シェアハウスでの暮らしをリアリズムで書いたら、外出しない日は、起床時間、三度の食事の内容、散歩の歩数を書くくらいで終了だから、おもしろくもなんともないはず。でも、一回くらいはやってみようかしら。退屈というのも、なかなかいいものかもしれない。   
 

蕎麦をたぐる0929

 中島らもさんは、私の好きな作家だ。単行本化されたものは、ほぼ読んでいるのではないかと思う。まともな小説も、おふざけでハチャメチャなものも、ともにおもしろい。
 ただねえ、あの人、ひとつだけ問題があるんだよ。「蕎麦をたぐる」と言うんだよ。そらあ、蕎麦たぐりますよ。でもねえ、前にお話ししたナマ馬生さんの件ね、そう、馬生さんが蕎麦を一本一本食いながら日本酒をすいすい飲んでいくてえやつ。あれを見ちゃって、私、それができなくなっちゃった。あんなにかっこ良くできないもんなあ。私なんかがやると、粋になりたくて田吾作が知ったかぶりしてると見えちゃう。これには自信がある。だから、とてもできない。
 これと同じことで、「蕎麦をたぐる」なんて、とても言えない。志ん朝さんくらいになったらたぐってもいいけど、ご本人は言わない。「蕎麦を食べる」と言っている。「たぐる」なんて文字で書くのは、中島らもさんと、平岩弓枝さんくらいなもんだ。平岩さんだって、登場人物にこそたぐらせているものの、ご自身では「食べる」んだと思う。あっ、杉浦日向子さんはどうだったか。
 まあ、らもちゃん関西人だから仕方がない。たぐらせておこう。もう死んじゃったけどな。残念である。
 中島らもさんの持ちネタで、関西人がでんぷんをおかずにでんぷんを食うというものがある。まあ、一種の関西自虐ネタである。たとえば、うどんをおかずにご飯を食べる。これにはいろんなバリエーションがあって、たこ焼きおかずにご飯を食べたりする。軽いエッセイによく登場するバクシーシ石井という人は、炒飯をおかずにご飯を食べるという。
 自虐ネタだから、関西人というのはものの道理がわからず、とんでもない連中であるといったところに接続していく。
 ところが、あるエッセイで、関東人も同じことをやるとうれしそうに報告しているのを読んだことがある。事件現場は月島である。一時期、中島らもさんは東京での仕事が増えたのか、築地に事務所のようなところを借りていたことがある。たぶん、その時期の話であろう。月島、築地は隣組と言っていい距離だ。
 そこの蕎麦屋で、客が、うどんをおかずに飯を食っているところに遭遇したというのである。でもねえ、らもちゃん、そいつ、関西から出張かなんかで来ていた人かもしれないよ。あんただって、関西人なのに、そこにいたじゃないの。それに、うどんというのがあやしい。心ある東京人はうどん食わないよ。
 私は、場末とはいえ、東京生まれ、東京育ちである。で、若いころはラーメンライスをよく食った。わりあい好きだったと言える。なにも、でんぷんおかずにでんぷんを食うのは、関西人の専売特許じゃないのである。

蕎麦を手繰る0930

 前回、確かに蕎麦はたぐるけど、私なんざあ、とても「蕎麦をたぐる」なんて言えないということを申しあげた。そして、中島らもさんの瑕疵のような雰囲気で、「あの人、蕎麦をたぐると言うんだよ」と申しあげた。
 ところが、22年3月の毎日新聞日曜版の松尾貴史さんのエッセイ「ちょっと違和感!」で、松尾さんも「たぐる」と言っておられた。ただ、「手繰る」と漢字を使ってはいたが。
 で、にわかに、大阪(というか関西)ではもしかしたらたぐるのかしらと思いはじめたわけである。これは調べねばなるまい。
 調査の結果(というほど大げさなものではない)、大阪では普通人はたぐらないことが判明した。
 二日連続で飲み会があり、二日連続で大阪人が出席していた。一日目はひとりで、これはまったくの普通人だが、二日目の三人は、大阪弁を使うのを仕事にしている人(ただし、漫才師ではないぞ。吉本関係でもない)だった。
 その方々が、力強く「たぐりません」とおっしゃっていたのだ。
 で、中島らもさん、松尾貴史さんという、ともに蕎麦をたぐる関西の方々の共通点はなにか。これがわかれば、蕎麦をたぐる関西人の秘密が判明するかもしれない。

【追記1】
 そうしたら、ありましたがな。
 同年5月15日の毎日新聞日曜版「ちょっと違和感!」で、松尾貴史さんもらもちゃん同様、大阪芸大の出身であることが判明したのである。
 ああそうか。大阪芸大では「蕎麦はたぐる」と教えているのかもしれないな。ホンマかいな。
 ここで、どうしても一言加えておきたい。
 松尾貴史さんの「ちょっと違和感!」は、私日頃愛読していて、毎週読むたびに「ああ、こんなまともな人がいまどきいるんだ」と安心し、かつこれからも生きていく勇気がわいてくる、とてもありがたい欄である。だから、松尾さんだったら「蕎麦を手繰る」のを許す。

【追記2】
 などと、とつおいつ考えていたら、なんとなんと大笑海岸、銚子の北方である。
 同年8月31日の毎日新聞に中島らもさんの追悼記事(と言っても亡くなったのは2004年だ)が載っていて、その記事で松尾さん、らもさんと仲良しだったことが判明したのである。次は、同記事の引用。

 らもさんの弟子を自任し、二人で杯を重ねることも多かった松尾さんだが、「君は弟子やない。親友や」とらもさんは偉ぶることはなかった。

 だから、二人で杯を重ねながら、「松尾くん、蕎麦は手繰るんだよ、食うたらあかんよ。まして、すすったりしたら絶対ペケや」とか、薫陶を受けていたのかもしれない。ホンマかいな。

【追記3】
 この文章を読まれた方は、8月31日以降に一気に書いたとお思いかもしれないが、【追記】は全部、新聞記事を見てから書き足していったものである。前にも言ったけど、暇ネタ書き溜めてるからね。

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