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俳家の酒 其の五「男山」

「大将、よく知っているね。」
「なに、うけうりだよ。」
 あいつの言っていることだから信憑性は保証しないと前置きし、「俳句」の名称自体は既に松尾芭蕉の時代に存在していたことを教えてくれた。それは、川柳につながる前句附にも適用。滑稽を表す「俳」の意味を考えた場合、
「川柳こそが正当俳句と呼ぶにふさわしいのかもしれない」
と笑いつつ・・・。

 川柳は、江戸時代中期に活躍した柄井川柳の個人名を冠するジャンルだ。俳句と同じく俳諧の流れを汲むが、俳句が発句から進化したのに対し、川柳は前句附をベースにしている。つまり、下の句(七七)で出された題目に対して上の句を付けるもの。
 柄井川柳は前句附興行で身を立て、点者として名を成した。芭蕉に遅れること約半世紀。1765年に選考句を収めた「誹風柳多留」を刊行し、「川柳」の名が定着することとなる。辞世として伝わる句は、川柳の興隆を見透かしているようでもある。

 木枯らしや跡で芽をふけ川柳

 突然扉が音を立て、男がぬっと現われた。
「不十分だな。」
 射刺すような眼を大将に向けながら、隣に座る。その迫力に気圧されてのけ反ると、
「気の強さ江戸でへこまぬ男山・・・」
と口遊みながら酒を注文。その歌は何かと尋ねると、「江戸時代の川柳だよ」と眼玉をぎょろりと動かした。1826年の柳多留に収められているこの川柳は、現代にも残るブランド「男山」が、当時大人気だったことを伺わせる資料ともなっている。

 かつて、江戸幕府公認の御免酒にも指定された男山。酒としては剣菱と並び川柳のネタとなり、その名は現代にまで轟く。しかし、今もブランドが残るとはいえ、もはや江戸時代のそれではない。
 男山を醸造した木綿屋山本本家は伊丹に蔵を構え、遠縁にあたる八幡太郎義家ゆかりの石清水八幡宮にあやかり「男山」の銘を用いた。その酒は「下り酒」として江戸で大評判となり、「下らない」の語源になったという説もある。つまり、男山に代表される上方の酒以外は、取るに足らないつまらないものとして「下らない」の言葉があてがわれたのだと。
 けれども、川柳が伝えるのは時代の流れ。それほどまでの人気を博してさえも、明治期に血脈は絶え、もはや好んで詠まれることもなくなった。ただ、暖簾分けにより全国に分散したブランドが、今も地方の男山を醸す。中でも旭川の酒造は本家公認の男山として知られ、かつての屋号を冠した「木綿屋」などを製造販売している。
 その酒を注ぎながら、赤ら顔の男が吼える。
「川柳は社会を写す。対して俳句はどうだ?」

(画像は大森山王小路飲食店街|第5回 俳句のさかな了 其の六「白雪」へ続く)


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