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俳家の酒 其の六「白雪」

 鰯雲ひとに告ぐべきことならず 楸邨

 俳句の歴史は、試行錯誤の連続だ。子規の唱えた写生がむしろ足枷となり、哲学が欠落した言葉の羅列が横行。文学者・桑原武夫氏に第二芸術と揶揄されて、反論に窮した終戦直後の記憶もある。
 そんな中でも生きながらえたのは、句会を中心とする座の文芸としての性格を有しているからだろう。言わば、文学というよりもゲームのような面白みが、多くの人を引き付ける。だが、それもまた芸術から乖離する要因だ。
 川柳は、既に芸術性を捨て去っている。それ故に自由だ。自由に日常を謳い、自由に明日を標榜する。あたかも一枚のポスターのように。

 俳句は静物画である。そのバックボーンは個人の美意識にあり、秘められた感情の暗躍を許す。故に、写実を志そうともデフォルメされ、そのかたちは心象の中に収束。そこでの景色を共有しようとすれば即ち、他者との間にズレが生じて、批評の嵐に晒される。
 もっとも、そのズレこそが俳句の面白みともいう。川柳ならば、表現対象の輪郭は明確である。その輪郭をなぞれば、誰もが同じものを想起する。つまり川柳は、他者との同時性を見出すツール。そのような芸事を俳句で実現しようとすれば、陳腐な作品に成り果てるだろう。

 冒頭は、社会性俳句を切り開いたとも言われる加藤楸邨の句。社会性俳句と言えども、その中に現れる風景には「正義」の如き主張がない。かくなるものは所詮、自己を擁護する言い訳でしかない。俳句は只、自らの立ち位置を見つめる静けさを漂わせるのみ。

「俳句は自己を写しとる・・・。」
 男はそう言いながら、懐から取り出した古事記をパラパラとめくる。
「果たしてその精神は、この時代から受け継がれてきたものなのだろうか?」

 唐突に課題を残して、男は暖簾の向こうに消え去った。カウンターの向こうに目をやると、腕組みをして天上を見上げる大将がいる。
「あいつの言うことはいつも、雲を掴むようなものだな・・・。」
 やがてクスクスと笑い始めて、目の前に寸胴のボトルを置いた。そのボトルには、「江戸元禄の酒」と書かれており、「白雪」の銘が入っていた。
「男山は衰退しても、白雪は連綿と歴史を醸し出している。」

 白雪は、1550年創業の小西酒造のブランド。男山と同じく伊丹の酒で、現存する最古の日本酒銘柄として知られている。そして今も、「江戸元禄の酒」として芭蕉の時代の味わいを残しているのだ。
 もっとも、その赤茶けた液体には、変化しきれない現状を過去の栄光で照らし出したかのような、悲哀の色を感じ取る。そう、それを敢えて醸し出す酒造に時代の落伍者のレッテルを貼り、僕は、注がれたコップをゆっくりと持ち上げていくのだ。

 だが、口に含めばどうだ。予想に反してふくよかな甘みが押し寄せてくる。現代人が好む辛口とは一線を画す味わいながら、不思議な引力を持つ酒。
「どうだ、旨いだろ?」
 大将が、したり顔をこちらに向けた。
「酒は、時間によって磨き上げられたものではない。嗜好の変化に応じて、時代時代のうまみが醸し出されてきたんだよ。」
 そして、変化に意味を見出すもののみが、次代に生き残るのだ。

(画像は渋谷のんべい横丁|第6回 俳句のさかな了 其の七「三文字」へ続く)


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