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JOG(048) 「公」と「私」と

日露戦争は一人一人の将兵が家族への「私情」を吐露しつつ、それを守ろうと「公」のために立ち上がった戦いであった。


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■1.「公」と「私」■

「私」とは自分や家族のため、「公」とは国家公共のため。一度戦争になれば、国民は「私」の部分を犠牲にして「公」につくさねばならない。さもないと、国民すべての「私」もなくなってしまう。

 明治日本が南下するロシアに対峙した時がまさしく、そういう状況であった。当時の日本人が、この問題にどう対処したのか、その赤裸々な声が「山桜集」という歌集となって残っている。今回は、これらの声を通じて「公」と「私」の問題について、考えてみよう。

■2.近づく怪雲■

 ロシアが全満洲を占領したのは、1900年10月。その過程で、7月には黒竜江東岸ブラゴウェシチェンスクにおいて、シナ人3千人を駆り立て、黒竜江に突き落として虐殺するという「黒竜江上の悲劇」を引き起こした。 

 ロシアが満洲、朝鮮と南下すれば、虐殺されたシナ人の運命は、明日の我が身かも知れない。当時、第一高等学校の記念寮祭歌として作られた「アムール川(黒竜江)の流血や」はその予感を伝える。

 アムール川の流血や 氷りて恨み結びけん
 二十世紀の東洋は 怪雲空にはこびつつ 

 ロシアは1903年、韓国領の竜岩浦(鴨緑江河口)を軍事占領し、要塞化を進めた。こうして「怪雲」の予感は、着々と現実のものとなっていった。 

■3.決死の宣戦布告■

 明治37年(1905年)、5ヶ月の対ロ交渉で、ロシアの侵略意図をとどめる事ができず、我が国はついに宣戦布告を行った。もとよりロシアは世界の大国、勝てるという見込みの立たないままの決断であった。時の総理、伊藤博文は次のように語っている。

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 若(も)し不幸にして戦(たたかい)利あらず、韓半島露軍(ロシア軍)の奄有(えんゆう、占領)するところとなり、旅順及び浦塩斯徳(ウラジオストック)の艦隊、我が海軍を撃破し、我が海洋を制圧するに至らば、余は自ら銃剣を挈(ひっさ)げて卒伍(一兵卒)に投じ、敵兵をして一歩だに我が領土を踏まざらしむべし
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 いざとなれば、自ら一兵卒になって祖国防衛の第一線に立つ、というのである。負ければ、他のすべてのアジア、アフリカ諸国と同様、植民地として隷従しなければならない。この危機感は明治天皇から国民までが共有したものであった。 

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 事乃一蹉跌を生ぜば(失敗するような事があれば)、朕何をもってか祖宗(御祖先の歴代天皇方)に謝し(お詫び申し上げ)、臣民に対するを得んと、忽(たちま)ち涙潸潸(さんさん)として下る。
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 明治天皇は、もしそのような事があれば、皇室の祖先と国民に対してお詫びのしようもない、と涙を流された。天皇は日露戦争中の御心労で食事も極端に進まず、それが原因となって8年後に肝臓の病で崩御されるのである。

■4.進軍の道すがら■

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軍人(いくさびと)すすむ山路をまのあたり見しは仮寝のゆめにぞありける
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 明治天皇は夢の中で、我が兵士らの行く山路の様子を見られる事もあった。その進軍の道すがら、敵兵の死体にそっと花を手向ける者もいた。

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  進軍の道すがら (陸軍少将 中村寛)
 道すがらあた(敵)の屍(かばね)に野の花を一もと折りて手向けつるかな 
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敵として戦っても、戦い終われば、人として「いつくしむ」事を忘れてはならぬ、という天皇の次の御歌を体現した武人の情けであった。

  国のためあだ(仇)なす仇はくだくともいつくしむべき事な忘れそ

■5.満洲の寒さ■

 戦場となった満洲の寒さは厳しい。しかしその寒さにも兵士らがまず思うのは、故郷に残した家族の事であった。
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 このごろ寒さ一入(ひとしお)に厳しければ故郷に病める
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母の御身の上を思はれて
 病なき我だに寒しこの頃はいためる母のいかがあるらむ
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 その寒さについて明治天皇は次のような御歌を詠まれている。
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 いたで(戦傷)おふ人のみとりに心せよにはかに風のさむくなりぬる
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 急に寒さが増して、即座に思われるのは、戦傷をおった兵士らの看取りであった。
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 寝覚めしてまづこそ思へつはもの(兵士)のたむろ(集まっている所)の寒さいかがあらむと
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 目が覚めて、朝の寒さにまず気づかわれるのは、兵士らの事であったのである。

■6.肉親を思う歌■

 戦場の夫が妻子を思い、また妻が夫を思う歌はとりわけ心を打つ。
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  家を出づる時よめる
 父の顔見覚え居よと乳児(ちご)にいへどちご心なく打ち笑みてのみ
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 出征の時に、これが最後かとも思い、父の顔を覚えていてくれよと、我が子を抱いて見つめるのだが、幼児はあやされているのかと思い、無心に笑うばかりである。
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 片言に君が代歌ういとし子のすがた写して夫(つま)におくらむ
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夫の出征の間に成長して、片言で君が代を歌う子供の写真を、夫に送ろうというのである。 

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  旅順攻囲雑詠
 たまたまに稚児とあそべる故郷のゆめおどろかす大砲(おおづつ)の音
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故郷で我が子と遊んでいる楽しい夢を、突然破るのは野戦の大砲の音であった。 
 
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  新年山
 つはものに召し出されし我(わが)せこ(夫)はいづくの山に年迎ふらむ
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 この歌は、陸軍二等兵卒大須賀昌二の妻まつ枝のものである。明治38年の春の歌会始の入選歌で、両陛下の前で披露された。出征した夫を思う妻のまごころは、多くの国民の共感を得たであろう。歌会始めという「公」的な場で、このような「私」の情が歌い上げられた所に、「私」を大切にする「公」というわが国の伝統が窺われる。

■7.「私」に根ざした「公」■

 山桜集の圧巻は、猿田只介という教師出身の一兵卒が残した次の連作である。
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  出征の折よめる
 待ちわびし召集令をうけしより心おどりぬなにとはなしに君のため国の為なりとはいへど老いしちち母思はぬにはあらず
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 勇ましき働きせよといひさして涙に曇る母のみことば

 ふた親に妾(わらわ)つかへむ国のためいざとはげますけなげなる妻

 門の辺(べ)に送るみ親ををろがめば泣かじとすれど涙こぼるる

 手をつかへなみだぐみたる教子(おしえご)の姿を見れば胸さけむとす

 いざやいざ朝日のみ旗おしたててふみにじらなむ露の醜草(しこぐさ、ロシアにかける) 
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召集令を待ちわびるという「公」の気持ちも、いざ出征となると、「老いしちち母思はずにはあらず」と「私」の気持ちが頭をもたげる。母親も「勇ましき働きせよ」と言いさしては「涙に曇る」。このような「公」と「私」の葛藤の果てに、ふたたび「いざやいざ」と戦場に向かう。

 一首目の「待ちわびし召集令」という気持ちは、「公」に向かったものだが、それはまだ残される家族への「私」の情は十分入っていない。しかし老いし父母や妻、教え子らの姿を通じて、自分にとって大切な人々を守ろうという「私」の情の後に生まれ出た最後の「いざやいざ」の歌こそ、「私」に根ざしたより深い「公」への気持ちである。 

 自分の家庭、家族を守っていたい、という「私」は、人間だれでもが持つ自然の人情である。しかし皆が小さな「私」だけを考えていれば、アムール川で虐殺されたシナ人のように「私」すら守れないことになってしまう。「私」を守るためにこそ、「公」に向かわねばならない時もある。

 「公」を無視した「私」だけでは利己主義の社会である。「私」を無視した「公」だけでは、全体主義である。山桜集や歌会始の入選歌にも見られるように、日露戦争は一人一人の将兵が家族への「私情」を吐露しつつ、それを守ろうと「公」のために立ち上がった戦いであった。極東の黄色人種の小国が、世界最大の陸軍を持つ白人国家に勝った最大の原因は、国民一人一人が「私」に根ざした「公」に立ち上がった強さであろう。

(文責・伊勢雅臣)

■参考■(お勧め度、★:必読~★:専門家向け)

1. 小柳陽太郎、「」★★★、日本への回帰第33集、国民文化研究会

■リンク■
a. JOG(007) 国際派日本人に問われるIdentity
中国の国父孫文:どうしてもアジアは、ヨーロッパに抵抗できず、ヨーロッパの圧迫からぬけだすことができず、永久にヨーロッパの奴隷にならなければならないと考えたのです。(中略)ところが、日本人がロシア人に勝ったのです。ヨーロッパに対してアジア民族が勝利したのは最近数百年の間にこれがはじめてでした。この戦争の影響がすぐ全アジアにつたわりますとアジアの全民族は、大きな驚きと喜びを感じ、とても大きな希望を抱いたのであります。

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