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【考察】独り言から始めるアウトプット①Note ・ YouTubeとの関連

はじめに


YouTubeを生活の中に組み入れて、もうすぐ1ヶ月が経とうとしている。
この20日余りで出した動画は5本。


チャンネル登録者は未だ6人。
簡単じゃない世界とはわかっていたけど、まだまだYouTuberとしては新米もいいところだ。


なぜ、今になって、YouTubeを始めたのか。
詳しくは別の記事で書いているので、ぜひそちらを見てほしいと思う。


▼ ちなみに最初の動画はこちら。


今日は、また少し別の話。


YouTubeに挑戦し始めてからの日々の中で、
散歩をしていてふと気付いたことについて語ろうと思う。


物書きに少しでも携わっていたり、
YouTubeの投稿者として少しでも経験がある人ならどこかわかってくれる部分があるんじゃないかと思う。


ぜひ気軽に読んでいってほしい。


記事を書くよりも。



もしかしたら、自分は記事を書くよりも
言葉を紡いだ方が上手くいくのかもしれない。


散歩している時に、フッと頭の中に浮かんできた。
前触れもなく、突然に。


もはや田舎では見慣れた風景である少し寂れた商店街を
青いコートを纏って取り止めもなく歩き、


ラジオでも聞こうか。と


背中に背負った黒のリュックサックのサイドスペースから
白い有線イヤホンを耳に付けようとしていた時のことだ。


僕は散歩をしている時にのんびりと風景を味わったり軽く散歩したりすることがほとんどなのだけれど、時々独り言を呟いたりする。


これを読んでくれているあなたはどうだろうか?


僕は、特に何も考えていないんだ。
頭の中の自動思考をそのまま外に垂れ流して言葉を外に逃してあげる。


側から見れば、20後半にもなる男がブツブツ呟きながら歩いているのは、


どこか気持ち悪いのかもしれないが、自分にとっては心を整理する、散歩中の大切な行為の一つだった。


今日もそんなことを思いつつ、かといってなんとなく独り言の気分にもなれず、つれづれなるままに音声を聞こうとしていたのだけれど、気付いた。


「その時、タツミの背筋に雷が貫くようなものが走った」某賭博アニメのナレーションの如く、天啓が降りてきたようだった。


独り言って、最強の文書ツールなんじゃない?

独り言って、最強の文書ツールなんじゃない?


僕は普段、Noteなどの媒体で文章を書いているのだけれど、文章を書くには、自分の中にあるものを言語化する必要がある。


言語化するには、まず思考をほぐす必要があるから。そのためには話すなどして情報を自分の内面から外面に出していく必要がある。


それには、独り言が最適なんじゃないかと思うのだ。


独り言にはさまざまな効果がある。


例えば、言葉を紡ぐことで思考が整理できる。


頭の中でぐちゃぐちゃになっているものをあちらこちら繋げて、文章に、そして話にしていく。別のところにある知識と知識が自然と結びついてくるような感覚。


独り言と言っても、その形は「自分」との対話なのだから、ただ言葉を発しているだけではなく、ある程度つながっている必要がある。

少なくとも、僕はそう思っている。



だから、僕にとっての独り言は、別の日の自分同士が出会って手を結んでいるような感じに捉えている。


独り言を続けて、思考が整理できてくると第二段階。
思いもよらない言葉が出てくる。


話している間の頭の中で、勝手に引き出しができて、知識と結びついて別の引き出しに戻っていくような感じ。


なぜこんなことが起きるのか。


なんとかして話をつなげようと、関連性を持たせようと、
頭が勝手に働くからだ。

自分の中にあるものを総動員してなんとか材料を探そうとする。


僕は元々、そういう自動思考が得意なタイプで、

小さい頃、正確には、中学生頃から−−−

何をしなくとも自動で思考を回す癖がついていた。


さらに、自分はさまざまなことに好奇心を発揮し、情報を収集する癖もあった。小学生の頃から何百ページもある活字の小説や図鑑をを読み、情報を取り入れることが好きだし、得意だった。


なので、インプット量には困らないし、新しい情報がどんどん入ってくる。


10数年もそんな事を続けていれば、自動で材料を探すのなんてお手のもの。
もっとも、自動思考のせいで余計なものを持ってくるのも多いのだけれど。


話すという形でアウトプットをして、より整理されて内面に戻っていくと、圧倒的に文章を書きやすくなる。


結果的に、Noteで記事を書くスピードも圧倒的に早くなっていく。



なぜなら、話したことを再構成し直して、紙に書いたりした上で執筆活動に移ればいいだけなんだから。場合によっては集中して30分くらいで描き終えてしまうかもしれない。


この記事も最初に言った通り、散歩の途中に浮かんできたことを整理して、文章に起こしている。独り言という実践の賜物だ。

あとはアウトプットの量を増やして話すことに慣れれば最高の布陣が出来上がるのではないか。そうおもう。


だから、こう考えるのだ。

もしかしたら、自分は記事を書くよりも
言葉を紡いだ方が上手くいくのかもしれない。


普段から独り言を呟くことが当たり前になっている僕としては、
話すことを全てのアウトプットの始まりにした方がいいのではないか?


そう思う。


独り言を発展させると


文章を書くというアウトプットと独り言はこうしてつながったのだけれど、
もう少し、話を進めてみたい。


独り言は、誰にともなく発するあてのない手紙みたいなものだ。
宛先不在で出し、自分の元に戻ってくる。


どうやっても戻ってくるし、それでいい。
自分発信、自分受け取りのセルフサービスの構造になっているからだ。


独り言をもう少し発展させたのがYouTubeなんじゃないか、と思う。


Youtubeは、画面の向こうに見てくれている人に、自分の話を届けるメディアだ。アウトプットのの一つとも言える。


そんなYoutubeだけれども、撮影中は基本的にひとりだ。


規模が大きくなってくるとチームを組んで撮影スタッフを入れて撮ることもあるのだろうけれど、自分みたいな知名度も何もない人が始める上では、
スタッフもいないし、外注先もまだいない。


ひとり撮影、ひとり編集の世界だ。


そんな世界で僕は独り言を呟いているに過ぎない。


Youtubeと独り言の違い。


では、YouTubeでの語りをなぜ、独り言の発展形だというのか。


それは、YouTubeでの語りは、宛先のない独り言でもあり、宛先のある発信でもある、2つの役割を持っているからだ。


前者については先に語った通りなので、細かい部分は割愛するが、たとえ撮影にあたって台本を作った語りであっても、実際の撮影では台本通りにいかないことの方が多い。


まるっきり台本通りだと、どうしても硬くなってしまうし、何より撮影していて面白くない。作り手が面白くないものを、どうして受け取り手も面白いと言えるだろうか。


だから、台本に従いはするが、予想外は必ず起きる。起きるべきだ。
話している中で予想外が起きれば当然。予想もしていない言葉が出てくる。


話の最中は気づかなくても、編集していると
「これ使えるじゃん!」と思ったりする。


編集したことのある人なら一度はこういう経験があるだろう。
その意味で、YouTubeの語りも独り言と言える、と僕は思っている。


後者についてもいうまでもないだろう。
メディアとしての発信な以上、誰かに聞いてもらうことを目的に発信する。


動画を観てもらい、聴いてもらった人に自分のことをもっと信頼してほしい。自分の発している情報をもっと受け取ってほしい。


そう祈りを込めて発信する。
YouTubeはその意味で、宛先があるとも言えるのだ。


ここまで約3000文字。
最後まで読んでくださってありがとうございます。

少し長くなってきたので、続きは別の記事に書きたいと思います。


この記事を公開した翌日には続きをアップするので、
疲れた方は、一呼吸おいて、続きの記事を読んでくださると嬉しいです。


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続きの記事では
「YouTubeと独り言からアウトプットと向き合う」


ということをテーマに引き続き書いていきたいと思います。
頑張って書きますので、ぜひ楽しみにお待ちください!!


ちなみに、YouTubeでは、こんな動画を上げています。
こちらもぜひご覧ください!





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