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「普通」の日々の積み重ねが「特別」を産み出す。

12月は「特別ラッシュ」の月だ。
クリスマスイブ、クリスマス、忘年会、年末、年始。
多くの人にとって12月は他の月とは違う「特別な日」が多い月であると言えるだろう。

そりゃあ師走の名の通り、僧侶さんも走り回るってもんだ。

それに僕の場合は父の誕生日もある。
なんなら11月も妹と僕の誕生日が行き着く間も無くやってくる。


僕の年末はイベント真っ盛りなのだ。

「特別」という言葉は「普通」の言葉なのに文字通り特別感がある。


特別のレッテルを貼られたものは必然的に周囲と区切られ、少しだけ高い位置から「普通」を見下ろしているような感じがする。

高いところから見下ろす、という言葉の性質のせいか物事に「特別」というレッテルを貼るのはなんだか苦手だ。


別に世間がクリスマスだ!チキンだ!サンタさんからのプレゼントだ!と盛り上がることに対して冷めた目を向けることはないんだけれど、少なくとも僕個人の中ではそれらの日々を「特別」ではなく、「日常の中にある1日」として消費したいと願っている。

実際、誕生日付近になるといつもそわそわするんだけど。実際の日は変に特別感出さずに過ごさないでいよう、自然体な1日にしようってなる。


もちろんケーキを食べたり、ちょっといつもより笑顔が多くなったりはするけどね。


もう少しこの「苦手」を言語化するとしたら、変にある日を特別扱いして区切ることでせっかく順調な日々の流れを止めたくはないなぁ〜っていう感じ。


物事は大抵動き始めるのに一番エネルギーがかかるから。


一度「特別」で止まってしまうと、動き出すのに余計なエネルギーがかかる。それは自然じゃないし、燃費が悪い。


どうせ止まるならもう1ヶ月も経てば新年が訪れるのだから、
そこで区切ればいいんじゃないかと思ったりもする。

で、12月を振り返ってみたら、「あ、そういえばクリスマスは特別な日だったね」ってクスって笑うくらいがいいと思うのだ。

魯迅が「故郷」にて「多くの人が歩くから、それが路となるのだ」と述べたのと同じで、「幾数もの『普通』の日常があるから、振り返った時に『特別』が感じられる」んじゃないか。


だから、日常に「特別」なんて区別は別にいらない。


「普通」の毎日に少しずつ特別っぽいエキスを滲ませていけばむしろ毎日が特別になって区切る必要もなくなるのでは?とも思えてくるくらいだ。


そうだといいな。


世間では12月を特別だとえんやわんや盛り上げるかもしれないけれど、少なくとも僕の中では「特別」というレッテルを貼らないで過ごしてみよう。


新年振り返ったらどんな気持ちになるだろうか?
誕生日の3日前、僕だけの「特別」を前にしながらふと物思いに耽ってみるのであった。


皆さんのお気持ちを、こっそり置いていっていただければ。小さな幸せ、これからも皆さんに与えます。